監督と選手の相性は重要だ。秘蔵っ子としてキャリアを通して何度もタッグを組むこともあれば、逆に全く起用されずにお別れするケースもある。今回は、著名な監督の元でプレーしながら、さまざまな理由で起用せず、あっという間に退団へと追いやられた日本人選手を5人紹介する。※リーグ戦出場数は同監督の下での成績[3/5ページ]
チェーザレ・プランデッリ×中田英寿

【写真:Getty Images】
共演したクラブ:パルマ(イタリア)
共演期間:2002年夏~2004年冬
中田英寿の成績:43試合4得点3アシスト(リーグ戦)
1998/99シーズンにセリエAへと挑戦した中田英寿は、1年目からペルージャでリーグ戦二桁ゴール達成と結果を残す。
翌シーズン途中には名門ローマへとステップアップを果たし、2000/01シーズンには日本人初のスクデットを獲得した。
なかでも、第29節ユヴェントス戦で、途中出場から2ゴールに絡んだ活躍は現在でも語り継がれており、首都クラブに18シーズンぶりの栄冠をもたらした。
そんな中田がイタリアで3つ目のクラブに選んだのがパルマだった。
エースナンバーの背番号10が与えられるなど期待値は高かったが、1年目の2001/02シーズンはわずか1ゴールと期待に応えられず。
そして、2年目には前シーズンまでヴェネツィアの指揮を執っていたチェーザレ・プランデッリが新監督に就任する。
すると、このイタリア人指揮官は就任と同時に獲得した元ブラジル代表FWアドリアーノと元ルーマニア代表FWムトゥを中心としたチームを構築する。
チームのメインシステムはトップ下が存在しない[4-4-2]へと変更。これにより、中田は本来得意としていないサイドでの起用が増えた。
プランデッリ政権1年目はセリエAで31試合に出場と多くの出場機会を得ていたが、2年目になると両者は起用法を巡る溝が深まり、冬の移籍市場でボローニャへと移籍した。
その後、2004年夏にフィオレンティーナへと移籍すると、その1年後に今度はプランデッリが同クラブの監督に就任。
中田はかつて起用法を巡って対立した指揮官の到着で移籍を希望し、イタリアを離れてボルトンへと新たな活躍の場を求めた。
