
フランコ・バレージ【写真:Getty Images】
ミラン一筋でプレーし、6度のスクデットと3度の欧州制覇を成し遂げたフランコ・バレージが、7月31日に66歳でこの世を去った。イタリア代表でも世界一を経験した“不屈のリベロ”は、14歳で母、17歳で父を失った悲しみを胸に、数々の苦難と向き合い続けた。ミランの永遠のカピターノが歩んだ、栄光と苦難の生涯をたどる。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
「時代を先取りしたパイオニア」フランコ・バレージ

フランコ・バレージ【写真:Getty Images】
7月31日、ミランのレジェンド、フランコ・バレージが数か月に及ぶ闘病の末に亡くなった。
約1年前には肺結節を切除する手術を受けていたが、今年2月6日に行われたミラノ・コルティナ冬季五輪開会式では、ライバルであった元インテルのジュゼッペ・ベルゴミと共にサン・シーロで聖火ランナーも務め、元気な姿を見せていた。
しかし、その後容体が悪化。帰らぬ人となってしまった。享年66歳だった。
最初にバレージの訃報を伝えたのは、彼が愛したミランだった。現地時間7月31日7時1分、クラブ公式『X』で、以下のように発表した。
「ミランの歴史は、フランコ・バレージの喪失に悲しみに暮れている。彼が示した模範とその人間的な深みは、永久欠番である背番号6と同じように、これからも永遠にクラブのDNA、そしてクラブ全体の歩みを形作る不可欠で根本的な存在であり続ける」
その翌日、イタリア紙『ラ・ガッゼッタ・デッロ・スポルト』は、バレージ追悼特集を組んだ。「私のカピターノ」と書かれた1面から21面まで、実に21ページに渡ってバレージ一色となった。
これほど大規模な特集が組まれたことを考えると、メディアはバレージの容体が悪化していることを事前に把握し、追悼記事の準備を進めていたのかもしれない。
また、フランス紙『レキップ』は彼を「時代を先取りしたパイオニア」と称え、イギリス紙『ガーディアン』は「偉大なミランの道徳的良心」と評し、世界各国のメディアも哀悼の意を示した。
インテル不合格から始まった「ミラン一筋」の物語

ACミラン フランコ・バレージ【写真:Getty Images】
バレージが生を受けたのは、1960年5月8日、イタリア北部ロンバルディーア州ブレッシャ県のトラヴァッリャートだった。貧しい農家に生まれ、4人きょうだいの末っ子だった。
2人の兄、アンジェロとジュゼッペに続き、サッカーを始めたフランコは、1974年、ジュゼッペが所属していたインテルのトライアルを受けた。
しかし、身体の小ささを理由に不合格となった。その後、ミランのトライアルを3度受け、ついに合格を勝ち取った。14歳の時だった。
トレーナーのパオロ・マリコンティによって、ミラノの方言で「ピッシニン(小柄な少年)」という愛称を付けられたバレージは、すぐに頭角を現した。
17歳で迎えた1978年4月23日のエラス・ヴェローナ戦で、セリエAデビューを果たす。
1969年のバロンドール受賞者であるジャンニ・リヴェーラからも、「この少年は将来有望だ」と太鼓判を押されていた。
1978/79シーズンのスクデット獲得を皮切りに、6度もイタリアの頂点に立ち、ミランの黄金時代を支えた。
同時に、クラブが暗黒期に突入した1979/80、1981/82シーズンには2度のセリエB降格も経験している。しかし、バレージがチームを見捨てることはなかった。
また、UEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)を3度制覇。欧州王者として3度来日し、トヨタカップ(インターコンチネンタルカップ)でも2度優勝を果たしている。
マルコ・ファン・バステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトのオランダトリオに注目が集まった一方で、当時のミランを精神面でもプレー面でも中心となって支えたのは、紛れもなくバレージであった。
2つ、3つ先のプレーを読み、身体を投げ出して相手のシュートを阻止。機を見て最終ラインから最前線まで駆け上がる姿は、まさに「リベロ」そのもの。ゾーンプレスの統率者として君臨した。
1997年に現役を引退するまで、ミラン一筋でプレーし、セリエAでは470試合に出場。これはリーグ歴代28位の記録となっている。
手術からわずか25日――94年W杯決勝で見せた不屈の120分

イタリア代表 フランコ・バレージ【写真:Getty Images】
一方、バレージはイタリア代表としても華々しいキャリアを築いた。
FIFAワールドカップ1982では、弱冠20歳で大会メンバーに名を連ね、世界一の栄冠を手にしたものの、出場機会はなかった。
地元開催となった1990年大会では、順調に準決勝まで勝ち上がったが、ディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンにPK戦の末に敗れ、3位に終わった。
そして迎えた1994年大会である。
初戦のアイルランド戦でまさかの黒星を喫したイタリアは、グループステージ第2戦のノルウェー戦でバレージが半月板を負傷。手術を決断し、大会中の復帰は絶望的と思われていた。
満身創痍のアッズーリは、グループEを1勝1分け1敗の勝ち点4で3位通過。3位チームのうち上位4チームが決勝トーナメントへ進出できる大会方式の中で、イタリアは最後の切符をつかみ取った。
ロベルト・バッジョの活躍によって劇的な勝ち上がりを見せたイタリアは、準決勝でブルガリアを2-1で下し、決勝進出を果たす。そしてバレージは、ブラジルとの決勝戦でピッチに立った。
9万4,194人の大観衆を集めたロサンゼルス郊外パサデナでの一戦。手術からわずか25日後、38度を超える酷暑の中で、バレージはロマーリオとベベットの強力2トップを封じ込めた。
90分間だけではない。延長戦の30分を含め、セレソン相手に最後まで立ちはだかった。
手術後、いったいどのようなリハビリを経て、この舞台に戻ってきたのだろうか。ただの一戦ではない。ワールドカップ決勝である。しかも相手はブラジル。そして灼熱地獄の戦いだった。さらに、この時すでにバレージは34歳だったことも忘れてはならない。
しかし、サッカーの女神はバレージには微笑まなかった。延長戦でも決着はつかず、勝負の行方はPK戦へ。
最初のキッカーを務めたのは、バレージだった。
シュートは無情にもバーの上へと大きく外れた。膝から崩れ落ち、顔を手で覆う姿は、今もなお多くの人々の記憶に刻まれている。
そして、バッジョのPK失敗によって、アッズーリの夏は終わりを告げた。
この大会のイタリア代表は、まるで人生の浮き沈みを映し出しているかのようだった。
初戦のアイルランド戦での黒星スタート。バレージの負傷。首の皮一枚でのグループステージ突破。バッジョの覚醒。バレージの奇跡的な復帰。そして、決勝での死闘と敗北。
日本でも多くの人々が、このアッズーリに魅了された。優勝を果たしたブラジルと同じように、深く愛されたチームだった。