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セリエA 5時間前

「サッカーにロマンがあった時代」との別れ。エッラス・ヴェローナを奇跡のセリエA優勝へ導いた名将バニョーリが死去 その沈黙で語った生涯【コラム】

オズヴァルド・バニョーリ
オズヴァルド・バニョーリ【写真:Getty Images】



 1984/85シーズン、エッラス・ヴェローナをクラブ史上初のセリエA優勝へ導いたオズヴァルド・バニョーリが、91歳でこの世を去った。スター軍団を率いたわけではない。それでも、寡黙な指揮官は選手を信じ、結束を力に変え、“プロヴィンチャ”に奇跡のスクデットをもたらした。その別れは、ロマンに溢れたサッカーの一つの時代との決別を意味するのかもしれない。教え子たちの証言とともに、イタリア・サッカー史に残る名将の生涯を振り返る。(文・佐藤徳和)[1/2ページ]

イタリア・サッカー界に相次ぐ訃報、91歳で逝った名将バニョーリ

オズヴァルド・バニョーリ
オズヴァルド・バニョーリ【写真:Getty Images】


 イタリア・サッカー界では、初夏に入ってから滂沱の涙が流れ続けている。

 セリエA、セリエB、セリエCのすべてのカテゴリーで得点王を獲得したイーゴル・プロッティとリベロとしてミラン一筋で活躍したカピターノ、フランコ・バレージの死去は、イタリアのみならず、日本の往年のセリエAファンにも大きな喪失感をもたらした。

 8月6日には、コモ・カルチョ(現コモ1907)やACチェゼーナ(現チェゼーナFC)など、数々のチームを率いたジュゼッペ・マルキオーロも他界した。90歳だった。

 マルキオーロは、三浦知良がプレーした1994/95シーズンのジェノアを指揮した監督である。1994年11月からフランコ・スコーリオ(2005年10月3日に逝去)の後任としてチームを指揮し、三浦がセリエAで唯一得点したサンプドリアとのジェノヴァ・ダービーでもベンチから指示を送っている。

 三浦の才能に懐疑的だったスコーリオとは違い、三浦を積極的に起用した監督であった。だが、最後まで指揮官の座に留まることができず、1995年3月19日に解任。それまでクラブのプリマヴェーラを指揮していたクラウディオ・マゼッリが後任となり、最終的にジェノアは18チーム中15位でセリエBに降格している。

 そして、オズヴァルド・バニョーリである。奇跡のセリエA制覇を成し遂げた1984/85シーズンのエッラス・ヴェローナを指揮した名将である。7月17日に死去。享年91歳であった。

 セリエAが1リーグ制となった1929年以降、州都ではない都市を本拠地とする、いわゆる“プロヴィンチャ”のクラブとして、最初で最後のスクデットを獲得したのがエッラス・ヴェローナであり、そのチームを率いたのがバニョーリであった。

 エッラス・ヴェローナの本拠地ヴェローナは、水の都ヴェネツィアを州都とするヴェネト州で2番目に大きな街。シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット(イタリア語では『ロメオ・エ・ジュリエッタ』)』の舞台であり、2000年の時を超えて今もコンサートなどで利用される古代ローマ時代の円形闘技場「アレーナ・ディ・ヴェローナ」で名を馳せる街だ。

世界的スターが集い始めたセリエA、その中で挑んだ“プロヴィンチャ”

1984年にSSCナポリに加入したディエゴ・マラドーナ
1984年にSSCナポリに加入したディエゴ・マラドーナ【写真:Getty Images】


 イタリアは、FIFAワールドカップ1966年大会のグループステージでソビエト連邦、北朝鮮に敗れ、3位に終わり、決勝トーナメント進出を逃していた。1938年大会で優勝して以降、2大会連続でグループステージ敗退。

 1958年大会は、北アイルランドが突破した予選で敗退し、本大会出場を逃した。さらに、2大会連続で決勝トーナメント進出を果たせなかった。アッズーリ、最初の“暗黒時代”である。

 セリエAは、イタリア代表強化のため、1966年に外国人選手の獲得を禁止するレギュレーションを採用。その効果が現れ、イタリア代表は、70年大会で2位、78年大会では4位、そして82年大会では優勝することとなる。

 1980/81シーズン、約14年ぶりとなる外国人選手の獲得を解禁し、世界的プレーヤーがイタリアに集結し始めていた。

 ローマには、パウロ・ロベルト・ファルカン、ユヴェントスにはミシェル・プラティニ、ウディネーゼにはジーコ、インテルにはカール=ハインツ・ルンメニゲ、そして1984年夏、ディエゴ・マラドーナがSSCナポリに加入する。

 世界最高峰リーグとして一時代を築くこととなるセリエAの黎明期である。1984年にはエッラス・ヴェローナにも、2人の大物助っ人外国人がやってくる。

 “カヴァッロ・パッツォ(狂馬)”の名でDFを震撼させ、やがて“イル・シンダコ(市長)”と呼ばれるようになるデンマークのアタッカー、プレーベン・エルケーア・ラルセンと、“重戦車”の異名を取ったドイツ代表のハンス=ペーター・ブリーゲルが加入する。

21年ぶりのヴェローナ帰還、セリエB制覇から始まった快進撃

エッラス・ヴェローナ
エッラス・ヴェローナ【写真:Getty Images】


 バニョーリは、ACチェゼーナをセリエBからセリエAへ昇格させた後の1981年、ヴェローナに帰還する。現役時代には3シーズンにわたりジャッロブルー(エッラス・ヴェローナの愛称)のユニフォームを纏い、97試合に出場。攻撃的なプレーヤーとして27ゴールを決めていた。21年の長い年月を経ての復帰だった。

 1978/79シーズンにマルケ州のクラブ、ファーノ・カルチョ(現アルマ・ユヴェントス・ファーノ)を率いてセリエC2を制していたバニョーリは、ヴェローナでもすぐに結果を出す。

 1981/82シーズン、エッラス・ヴェローナをセリエB制覇へと導いたのだ。1980/81シーズンは、ミランやジェノアといったセリエA常連クラブがトップリーグへの返り咲きを決める中、エッラス・ヴェローナは20チーム中16位に終わり、辛うじて残留を果たしたにすぎなかった。そこからわずか1年での、まさに劇的なセリエB優勝だった。

 1978/79シーズン以来のセリエA復帰となった最初のシーズンから快進撃を見せ、4位でフィニッシュし、UEFAカップ出場権を獲得。コッパ・イタリアでも決勝に駒を進めた。ユヴェントスとの決戦。本拠地マルカントーニオ・ベンテゴーディでの初戦は2-0で先勝したものの、敵地で行われた第2戦では2戦合計2-2となり、延長戦の末にプラティニに決勝ゴールを許し、2-3で惜しくも優勝を逃した。

 1983/84シーズンは8位と順位を落としたものの、コッパ・イタリアでは再びファイナルに進出する。今度は、ファルカンやトニーニョ・セレーゾを擁するASローマとの対戦だった。本拠地での初戦を1-1で引き分けるが、第2戦は0-1で惜敗。2年連続で準優勝に終わった。

 UEFAカップでは、当時のユーゴスラビアで最強を誇ったツルヴェナ・ズヴェズダから2戦2勝を挙げるものの、オーストリアのSKシュトゥルム・グラーツにアウェーゴール数の差でベスト32敗退となった。

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