
オズヴァルド・バニョーリ【写真:Getty Images】
1984/85シーズン、エッラス・ヴェローナをクラブ史上初のセリエA優勝へ導いたオズヴァルド・バニョーリが、91歳でこの世を去った。スター軍団を率いたわけではない。それでも、寡黙な指揮官は選手を信じ、結束を力に変え、“プロヴィンチャ”に奇跡のスクデットをもたらした。その別れは、ロマンに溢れたサッカーの一つの時代との決別を意味するのかもしれない。教え子たちの証言とともに、イタリア・サッカー史に残る名将の生涯を振り返る。(文・佐藤徳和)[2/2ページ]
マラドーナを破って始まった奇跡、プロヴィンチャが掴んだスクデット

セリエA優勝30周年を祝う当時のエッラス・ヴェローナのメンバー【写真:Getty Images】
そして、伝説の1984/85シーズンである。セリエA復帰後、台風の目となっていたエッラス・ヴェローナだが、優勝を予想した者など、皆無だったに違いない。サポーター、選手、チームスタッフ、バニョーリやクラブ会長のチェレスティーノセルジョ・グイドッティでさえも、スクデットを思い描かなかったはずだ。
革新的な戦術があったわけではなく、守備的なイタリアらしいサッカーであった。そのスタイルは結果にも表れ、リーグ最少失点でシーズンを終えている。
その守備の中心となったのが、カピターノでリベロのロベルト・トリチェッラだった。生まれ故郷チェルヌスコ・スル・ナヴィーリオの同郷であるユーヴェのガエターノ・シレアの真の後継者と言われ、最後尾からの攻撃参加で、攻撃の起点にもなった。1987年夏にはユーヴェに移籍し、ビアンコネロの一員となっている。
最終ラインの“防波堤”となったのはドメニコ・ヴォルパーティとシルヴァーノ・フォントランの2人だ。アントニオ・ディ・ジェンナーロはこのチームの司令塔を務めた。イタリア代表でも15試合に出場したレジスタだった。
そして、新加入の外国人2人、エルケーアとブリーゲル。前者は8ゴール、後者は9ゴールを決め、“助っ人”としての任務を遂行した。チーム最多のゴールを決めたのは、ナーヌの愛称で親しまれたジュゼッペ・ガルデリージ。4得点のPKを含む11ゴールを挙げ、優勝に大きく貢献した。
しかし、優勝最大の功労者が指揮官バニョーリであったことは言うまでもない。最大の強みは、チームの団結力にあった。突出した個の力に頼るのではなく、チームの輪を重んじる集団を作り上げた。
1984/85シーズンの開幕節、マラドーナを擁するSSCナポリを3-1で撃破し、第2節でもアスコリ・カルチョに勝利。早くも単独首位に立つと、最後まで首位を明け渡すことなく、優勝した。
第5節では、前シーズンの覇者であり、1984/85シーズンに欧州の頂点に立つこととなる、この時代の世界最強クラブの一つ、ユヴェントスに本拠地で2-0と勝利。さらに、アウェーでの第2戦も0-0で引き分けている。
バニョーリは、5月12日のアタランタ戦で引き分けて優勝を決めた後、「敵地でのユーヴェ戦に引き分けたことが大きかった」と語っている。
優勝候補のユーヴェはこのシーズン、6位に終わったが、1985/86シーズンにはスクデットを取り戻し、トヨタカップ(インターコンチネンタルカップ)も制して世界一に輝いた。そのユーヴェに2戦して負けることがなかったことは、本当に大きかった。
実はこのシーズン、審判の割り当てが完全抽選によって決定された唯一のシーズンであった。エッラス・ヴェローナが1984/85シーズンを制すると、ビッグクラブからの反発により、重要度の高い試合には実績のあるベテラン審判を置く従来のやり方に戻され、1985/86シーズン、エッラス・ヴェローナは10位に終わった。
「沈黙で語ることを学んだ」グイドリンが明かした名将の素顔

エッラス・ヴェローナ オズヴァルド・バニョーリ【写真:Getty Images】
バニョーリの教え子の一人に、ウディネーゼの元指揮官だったフランチェスコ・グイドリンがいる。だが、彼は優勝の美酒を味わうことはなかった。グイドリンは、1975年にエッラス・ヴェローナでプロキャリアをスタートし、レンタルを繰り返しながら、1984年までエッラスに所属した。1981年にバニョーリがチームにやってきた当時を回想する。
「私は内気で控えめな性格で、監督と少し似ていた。そこで勇気を出して監督にこう言った。『監督、私は責任を与えられると、最大限の力を発揮するタイプだと思います』。監督は私をじっと見て、私をキャプテンに選んだ。私たちは素晴らしいシーズンを送り、セリエAに復帰。私はトップ下として起用され、8ゴールを決めた」
「私にとって最高のシーズンで、あれほど良いプレーをすることは、その後二度となかった。監督には、全員を正しいポジションに配置する素晴らしい才能があった」
バニョーリは、イタリア人としては珍しく、寡黙な人物として知られていた。グイドリンは、そんなバニョーリの人柄を物語るエピソードを明かす。
「監督は控えめな人だった。ある時、監督がトレーニングにやって来て、私たちはすでにウォーミングアップのランニングをしていた。そこで監督に、『おはようございます』と声をかけた。でも、監督は返事をしなかった。礼儀を知らなかったわけではなく、そういう人だった。口数が少なく、話す時も声が小さかったこともあって、耳を澄まさなければならなかった」
グイドリンは語る。「監督から私は、沈黙で語ることを学んだ。時には、たくさんの言葉よりも、沈黙のほうが多くを語るということを」
グイドリンは1982年夏には、ボローニャFCへのレンタル移籍を命じられる。その際の出来事について、「バニョーリの偉大さが表れていた」というエピソードを語った。
「クラブはブラジル人のディルセウを獲得した。監督はそれに反対し、幹部たちに『グイドリンがいるんだから、ディルセウは必要ない』と言ってくれた。でも、どうにもならなかった。契約は決まり、後戻りはできなかった。監督は私を部屋に呼び、私の目を見つめ、最後まで視線をそらすことなく話してくれた」
「『フランチェスコ、今この瞬間、私は君に対して自分がとても小さな人間に感じる。残念ながら、クラブが決断を下した。私はもう君にポジションを保証することができない』」
バニョーリが嘘偽りなく、率直に伝えたことで、グイドリンに蟠りはなかった。1984/85シーズン、グイドリンはカルチョ・ヴェネツィア(ヴェネツィアFC)への移籍を強いられていた。所属するリーグはセリエC2。
結果として、優勝を成し遂げる直前での退団となったにもかかわらず、バニョーリに対する恨みなどはなく、むしろ尊敬の念を抱いていた。
グイドリンは現役引退後、ヴェネト州のアマチュアクラブ、ジョルジョーネの下部組織で指導者としてのキャリアをスタートさせている。
「まさにバニョーリ監督との対談をお願いした。システムや戦術、トレーニングについて、私はまだ明確な考えを持ってなかった。監督は1時間、私のために時間を割いてくれた。技術的なアドバイスだけでなく、『何よりも大切なのは、選手を理解し、選手との関係において信頼されることだ』と話してくれた」
グイドリンもまた、バニョーリと同じように、名将と呼ばれるほどのキャリアを築いた監督だ。ビッグクラブを率いる機会には恵まれなかったが、中堅クラブのウディネーゼで一時代を築き、2011/12シーズンにはセリエAでチームを3位に導いている。
ジェノアでも刻んだ伝説、そしてヴェローナとの最後の別れ

オズヴァルド・バニョーリ【写真:Getty Images】
バニョーリを語る時、その多くがエッラス・ヴェローナに纏わるものだ。1989/90シーズンにエッラスがセリエBに降格し、そのサイクルに終止符を打たれることとなる。しかし、翌シーズンから指揮したジェノアでも、もう一つの偉業を成し遂げている。
1990/91シーズン、ジェノアは4位に入り、UEFAカップ出場権を得る。イタリアのリーグ、初代王者であり、9回のスクデットを誇るクラブであるが、セリエAの4位は第二次世界大戦後の最高成績であった。
さらに、翌シーズン、UEFAカップでは準決勝まで進出する。準々決勝のリヴァプール戦では、本拠地ルイージ・フェッラーリスでの第1戦で2-0と撃破。第2戦もウルグアイ代表のエース、カルロス・アルベルト・アギレラの2得点により2-1と勝利を挙げ、セミファイナルに進出した。
準決勝ではオランダの盟主、アヤックスに1分1敗で敗れたが、そのアヤックスが決勝でトリノ・カルチョ(現トリノFC)と2試合とも引き分け、アウェーゴールの差で下して、優勝している。
惜しくも優勝こそ逃したが、イタリアのクラブがリヴァプールの本拠地であるアンフィールドで勝利した史上初の出来事であり、ジェノアはその後もセリエAで4位以上に入ることもなければ、欧州の舞台でベスト4を上回ることもない。
7月21日、ヴェローナ市内の中心に位置するサン・ゼーノ大聖堂で、バニョーリの葬儀が営まれた。家族や優勝メンバーのほか、スクデット制覇を知るサポーターだけでなく、若い世代のファンも多く駆けつけた。
彼らは、「寡黙な指揮官、この街の歴史であり伝説。オズヴァルド・バニョーリ、ヴェローナはあなたに敬意を示す」と横断幕を掲げ、哀悼の意を表した。
エッラス・ヴェローナの武勲から40年以上の歳月が経ち、もはや、リーグを制することのできるクラブは、一握りの金満クラブだけになってしまった。
あの時代、間違いなく、サッカーにはロマンがあった。一人の監督の指導力、戦術眼、人間性といったものだけで、優勝できる時代ではない。いかに優れた監督を招聘しても、それだけで王者になることは難しい。
バニョーリの別れは、ロマンに溢れたサッカーの一つの時代との決別を意味するのかもしれない。
(文・佐藤徳和)
【著者プロフィール:佐藤徳和】
1998年にローマでの語学留学中に、地元のアマチュアクラブ「ロムーレア」の練習に参加。帰国後、『ポケットプログレッシブ伊和・和伊辞典』(小学館)の制作に参加し、イタリア語学習書などの編集、校正、執筆に携わる。2007年から、フリーランスとして活動し、主にイタリア・サッカー記事のライティングに従事。2014年には、FC東京でイタリア人臨時GKコーチの通訳を務める。IL ROMANISTA、日本特派員。『使えるイタリア語単語3700』(ベレ出版)、『イタリア語基本の500単語』(語研)を共同執筆。日伊協会では、カルチョの記事を読む講座を開講中。X:@noricazuccuru
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