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コラム 2026.10.14 18:00

「ナカタ」の衝撃から28年。あの名門ペルージャは今? 2度の破産、名物会長の転落…約20年ぶりにガウッチ家が帰還へ【カルチョを読む】

ACペルージャ
かつて1998/99シーズンから6シーズン連続でセリエAに在籍したACペルージャ【写真:Getty Images】



 1998年、中田英寿が衝撃のセリエAデビューを飾ったACペルージャ。その中田を獲得し、クラブの黄金時代を築いたのが、名物会長ルチャーノ・ガウッチだった。しかし、その栄光は長く続かず、クラブは2度の破産を経験。セリエAの舞台からも遠ざかった。そして今、約20年の時を経て、ガウッチ家がクラブ経営に復帰しようとしている。一族が築いた栄光と転落の歴史、そして再建への新たな挑戦を追う。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]

「ナカタ! ナカタ!」王者ユヴェントスを震撼させた21歳の衝撃

ACペルージャ 中田英寿
セリエAデビュー戦でユヴェントス相手に2ゴールを挙げた中田英寿【写真:Getty Images】



 1998年9月13日。ACペルージャの本拠地、レナト・クーリから中央駅へとつながる帰路は、人々の笑顔であふれていた。すれ違うACペルージャのティフォージ(サポーター)は、満面の笑みを浮かべ、「ナカタ! ナカタ!」と歓声をあげていた。

 2年ぶりにセリエAに返り咲いたACペルージャの1998/99シーズン初戦。ホームに迎えたのは、前年度のセリエA王者で、UEFAチャンピオンズリーグのファイナリスト、ユヴェントスであった。

 ジネディーヌ・ジダン、アレッサンドロ・デル・ピエーロ、フィリッポ・インザーギ、エドガー・ダーヴィッツ、ディディエ・デシャンらを擁し、マルチェッロ・リッピが率いるチームは、序盤からACペルージャに襲いかかる。前半を終えた時点で3ゴールを挙げた。

 ACペルージャのサポーターからは罵声が飛ぶ。「ここはホームだぞ!」

 しかし、後半、一転してグリフォーネ(ACペルージャのシンボルである伝説上の怪獣)が反撃に転じる。その先導役となったのが、中田英寿であった。

 52分、角度のないところから右足を振り抜き、ニアにぶち込む。その7分後には、ゴール前の混戦からボレーを叩き込み、1点差に詰め寄るゴールを奪った。

 王者ユーヴェから2ゴールを奪ったにもかかわらず、日いづる国から来た21歳のジョカトーレに笑みはない。味方から祝福されても無表情。むしろ、ゴールを奪うたびに、その表情は怒気をはらんでいるように見えた。

 その後、ビアンコネーロに4点目を奪われるものの、88分には快速FWミラン・ラパイッチがPKを獲得。これを途中出場の10番アントニオ・ベルナルディーニが沈めて1点差に詰め寄ると、曇天から激しい雨が降り注ぐ中、スタジアムのボルテージは最高潮に達した。だが、試合はこのまま動かずに終了。3-4で惜しくも初戦を落とした。

 ユーヴェは4点を奪う攻撃力を誇示したが、ジダンは負傷により24分でダニエル・フォンセカと交代。デル・ピエーロも精彩を欠き、67分でピッチを後にした。

 スーパースター軍団との対峙となったこの一戦で、主役は紛れもなく、勝利したユーヴェの面々ではなく、2得点を挙げた中田であった。キックオフ直後から、闘犬ダーヴィッツのハードプレスをものともせず、ボールを確実にキープ。一つ一つのパスも正確で、臆するところは一切なかった。ジャッポネーゼのクオリティーは、本物だった。

 後にも先にも、これほどセンセーショナルな欧州デビューを飾った日本人選手はいない。相手は当時、世界最強チームの一つだったユーヴェであった。その相手に一歩も怯むことなく、ドッピエッタ。28年もの年月が過ぎたが、今なお多くのファンに語り継がれる。

中田を見出した名物会長。ルチャーノ・ガウッチとは何者だったのか?

ACペルージャ ルチャーノ・ガウッチ
1991年から2004年までACペルージャの会長を務めたルチャーノ・ガウッチ【写真:Getty Images】



 日本代表が初めてワールドカップ出場を果たした記念すべき1998年は、中田の年となった。

 それまで日本人にはあまり馴染みのなかった、イタリア半島中央に位置するウンブリア州の州都ペルージャの名は、またたく間に広がり、日本のサッカーは中田を中心に動いた。連日、ACペルージャの話題が大きく報じられ、そしてその会長であり、中田を獲得したルチャーノ・ガウッチも時の人となった。

 中田の入団会見では、2人の息子、アレッサンドロとリッカルドと共にACペルージャのユニフォームを携えて登場した。当時、ガウッチ・ファミリーが所有していたトッレ・アルフィーナも、「ガウッチ城」の名で一躍有名になったほどだ。

 ルチャーノ・ガウッチは1938年12月28日、首都ローマの生まれだ。マルケ州にルーツを持つ小地主の家系で、最初の就職先はローマ市交通会社のATACで、路面電車の運転士も務めた。その後、ガウッチはATACを退職し、義父が経営する清掃会社に入り、1975年、ローマで個人事業の清掃会社「ラ・ミラネーゼ」を設立した。

「ミラノの」を意味する「ラ・ミラネーゼ」は、ミラノの仕事の効率性をイメージさせるために名付けたと言われている。創業からわずか10年で、ガウッチの会社はイタリア全土で3,500人を超える従業員を抱えるまでに成長した。

 ガウッチは競馬界にも進出。1980年には競走馬の厩舎「ホワイト・スター」を設立し、名馬トニー・ビンを育てた。1993年まで馬種改良連合の理事を務めるなど、競馬界でも存在感を示した。

 もう一つ、ガウッチが情熱を注いだのがサッカーであった。1981年には、当時ディーノ・ヴィオラが会長を務めていたASローマの取締役会のメンバーとなり、1984年には副会長に就任した。自らがASローマのサポーターであったガウッチの野望は、クラブの買収であったが、その試みは失敗。その後、驚くことに永遠の宿敵、SSラツィオの経営権取得にも乗り出すが、こちらも実を結ぶことはなかった。

 紆余曲折を経て、オーナーとなったのが、セリエC1に在籍していたACペルージャであった。1991年のことである。

セリエA昇格、そして中田英寿の獲得。ガウッチ家が築いた黄金時代

ACペルージャ 中田英寿
中田英寿と元ブラジル代表DFゼ・マリア【写真:Getty Images】



 長く下位リーグをさまよっていたACペルージャは、1995/96シーズン、ガウッチ体制下で初めてセリエA昇格を実現した。

 マッシミリャーノ・アッレグリを擁し、キャリア初期のジェンナーロ・イヴァン・ガットゥーゾ、マルコ・マテラッツィらも所属していたチームは、セリエBを3位で終えて昇格を勝ち取った(上位4チームが自動昇格)。ヴァルテル・ノヴェッリーノ、ディエゴ・ジャンナッタージョ、ジョヴァンニ・ガレオーネの3人が監督を務め、セリエA昇格を果たしたシーズンだった。

 翌シーズンは、18チーム中16位に終わり、1年でセリエBに降格。そして、1997/98シーズン。このシーズンも序盤戦からガウッチの満足のいくようなサッカーは見られず、アッティリオ・ペロッティ監督からアルベルト・ビゴンに首をすげ替えられ、さらにペロッティが復帰。

 そして、3月22日のカルチョ・パドヴァ戦に1-3と敗れると、ガウッチはまたしても決断。イラーリオ・カスタニェールを新監督に任命した。当時57歳のカスタニェールは、1978/79シーズンに優勝したミランとは勝ち点3差の2位で終えた奇跡のシーズンを指揮した名将であった(2023年2月18日に他界)。

 伝説の指揮官の復帰にチームは奮い立ち、残り試合を11戦7勝4分け無敗で駆け抜け、4位でフィニッシュ。中立地レッジョ・エミーリャで開催された5位トリノ・カルチョとのプレーオフにPK戦の激戦の末に勝利を収め、セリエA復帰を決めた。

 そして、セリエAへの復帰を果たし、迎えたのが中田である。長男アレッサンドロが立ち上げた自社ブランド『Galex』のユニフォーム、中田の着用していた背番号「7」のモデルは、わずか3か月で2万5000着を売り上げたというから驚きだ(イタリア・メディア『Ultimo Uomo』調べ)。

 中田の獲得はマーケティング面だけでなく、戦力面でも大成功を収めた補強だったことは、今さら語るまでもない。中田はセリエA挑戦1年目に10ゴールを記録。ペルージャの人々のハートを鷲掴みにし、“NAKATA”の名前はイタリア全土を駆け抜けた。チームは14位で残留に成功し、2003/04シーズンまでトップリーグに留まり続けた。

 こうして2000年1月、ガウッチは350万ユーロで獲得した中田を2170万ユーロでASローマに売却することに成功した(移籍金額はどちらも推定)。まさにガウッチ栄光の時代であった。

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