ファンタジスタは、絶滅してしまうのだろうか。イタリア語で、ひらめきと技巧で観客を魅了する選手を指す。。かつてイタリアのセリエAには、自由な発想と唯一無二のプレーで観客を熱狂させた数々の名手がいた。しかし、戦術が進化し、選手に求められる役割が細分化された現代サッカーにおいて、そうした個性はかつてほど目立たなくなっている。彼らの才能はいかにして花開き、何を成し遂げ、どのような人生を歩んだのか。栄光も挫折も含め、カルチョを彩った天才たちの足跡をたどる。第1回は、「パレルモのマラドーナ」と呼ばれたファブリツィオ・ミッコリ。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
11年の時を経て引退試合が開催
2026年9月26日、パレルモFCの本拠地、スタディオ・レンツォ・バルベーラには、一人の選手の引退試合を見届けようと多くのファンが駆けつけた。
“The Last Match, Miccoli Legends Game”。2000年代から2015年頃までセリエAを中心に名を馳せ、2007年夏から6シーズンにわたり、USCパレルモ(現パレルモFC)の一員として活躍したファブリツィオ・ミッコリの引退試合である。
最後にプレーしたのは2015年、マルタのビルキルカラFCでのこと。引退から11年を経て、こうした引退試合が開催されることは珍しい。イタリアのミュージシャンやコメディアンも試合前に登場し、ミッコリのラストマッチを大いに盛り上げた。
往年のスター選手が集結した“チーム・ミッコリ”は、“テレビ・アーティスト代表チーム”と対戦。現パレルモFCの指揮官フィリッポ・インザーギをはじめ、アマウリ、ヨシップ・イリチッチ、フェデリーコ・バルザレッティ、マッティア・カッサーニ、ファビオ・リヴェラーニ、サルヴァトーレ・シリグ、ファビオ・シンプリシオ、ヌーノ・ゴメスといったミッコリの元チームメイトの多くで構成されたチームは、アマチュア相手に容赦なく襲いかかった。
2点目は、イリチッチからのパスを受けたミッコリが強烈なシュートをねじ込んだ。10番を身にまとったミッコリは、現役時代よりも恰幅がよくなったものの、シュートの威力は衰えを感じさせない破壊的なものだった。
また、5点目を沈めたのは、ミッコリの息子、ディエゴ・ミッコリだった。父ファブリツィの思いが一本のパスに託され、息子がそれをゴールに結びつけた。
2008年6月3日に誕生したディエゴの名は、父の憧れの選手だったディエゴ・アルマンド・マラドーナにあやかって名づけられたものだ。
父とは違って線が細く、今どきの若者らしい容姿だが、ラツィオ州を本拠地とするグイドーニア・モンテチェーリオFCのプリマヴェーラに所属している。ポジションはトレクアルティスタだ。
試合は6-0でチーム・ミッコリが大勝。ファンだけでなく、ミッコリの盟友たちからも何度も笑顔がこぼれる一戦となった。
今も語り継がれる伝説のゴール
47歳のミッコリは試合後、「感動的だった。泣かないと自分に言い聞かせていたが、それは難しかった。でも、それが自分の本当の気持ちだ」と語った。
さらに、「パレルモを去ったときのあの去り方が、私はずっと気に入らなかった。だから今日、本当に一つの区切りになった。苦しい時期にも、私はずっとこの日が来ることを願い続けていた」と記者たちに語っている。
1979年6月27日に生を受けたミッコリ。イタリア半島のまさに踵に位置するプーリャ州レッチェ県ナルドーの生まれで、サン・ドナート・ディ・レッチェで育った。
公称は1メートル68だが、実際にはさらに小柄に感じられる。
“サレントのロマーリオ”、あるいはディエゴ・マラドーナの愛称“ピーベ・デ・オーロ(黄金の子)”にちなみ、“ピーベ・ディ・ナルドー”の愛称で親しまれた。
ポジションはセカンドトップ、トレクアルティスタ、そしてウィング。今では絶滅危惧種、それも「深刻な危機」のカテゴリーに分類されるファンタジスタの一人でもある。
ファンタジスタ(fantasista)とは、イタリア語のファンタジーア(fantasia)に由来し、「想像力」「創造力」「独創性」を備えた選手を意味する。
それゆえ、イタリアでは、ポジションにかかわらず、こうした特性を備えた選手はファンタジスタと見なされる。
小柄ながら丸太のような体型で、ずんぐりとしていたが、スピードと爆発的な瞬発力を持ち、ドリブルにも優れていた。
さらに、その背丈からは想像できないほど強力なシュートを放ち、FKからも得点を量産した。
USCパレルモ時代の2012年9月30日、キエーヴォ・ヴェローナ戦では約40メートルの距離からゴールを突き刺した。
味方選手がヘディングで競った際に生まれたこぼれ球を、そのままダイレクトボレーでシュート。ゴールエリアから少し前に出ていたGKステファノ・ソレンティーノの頭上を越え、ネットに突き刺さった。今でも語り継がれる伝説のゴールだ。
そのスキルは幼少期から突出していた。
才能はあったが「ミランから何の連絡もなくなり…」
6歳のとき、ミッコリはあまりにも実力があったため、サン・ドナート・ディ・レッチェの幹部たちが、8歳の子どもたちと一緒にプレーできるよう、ミッコリの身分証明書を偽造していたという。有名なエピソードだ。
12歳のときにはミランに引き抜かれた。2年間在籍し、ジョヴァニッシミ(U-15に相当)のカテゴリーでチャンピオンになった。
当時の同期には、フランチェスコ・ココ、ダニエレ・ダイーノ、現マンチェスター・シティ指揮官のエンツォ・マレスカ、パルマ・カルチョのプリマヴェーラで監督を務めるニコラ・コッレントらがいた。
しかし、本人は2020年4月6日に行われた『カルチョメルカート・コム』のインタビューで、「契約更新の通知の手紙はすでに受け取っていたが、その後、ミランから何の連絡もなくなり、退団する運びとなった」と語っている。
当時まだ12歳の子どもが親元を離れ、習慣も異なる北部の宿舎で生活することは、簡単なことではなかった。
プロとしてのキャリアをスタートさせた後、もう一つの“名門”に所属した時期も1年間あった。
イタリア全土で愛されるクラブ、“イタリアの恋人”、ユヴェントスである。
だが、すぐにACペルージャにレンタル移籍で送り出された。2002/03シーズンのセリエAで9ゴールを挙げると、翌シーズンはユーヴェに復帰。アタッカー陣には、アレッサンドロ・デル・ピエロ、ダヴィド・トレゼゲ、マルコ・ディ・ヴァイオ、マルセロ・サラジェタといった錚々たるメンバーがそろっていた。
ミッコリも8ゴールを挙げ、及第点の結果を残したが、それだけの活躍ではビッグクラブを納得させるには至らなかった。
こうして、フィオレンティーナ、SLベンフィカを経て、2007年にUSCパレルモへ移籍。すでに28歳を迎えていた。
3年目のシーズンには、得点ランキング3位となる19ゴールをマーク。パレルモの看板選手となり、“パレルモのマラドーナ”と崇められるまでになった。
81ゴールは、ロザネーロ(パレルモの愛称)の歴代最多得点記録となり、今も破られていない。
しかし、ミッコリは、輝かしい記録ではなく、汚名によってその名をパレルモに残すこととなってしまう。



