
年代別イタリア代表ではエースとして活躍しながらも、A代表には一度も選出されなかったドメニコ・モルフェオ【写真:Getty Images】
ファンタジスタは、絶滅してしまうのだろうか。イタリア語で、ひらめきと技巧で観客を魅了する選手を指す。かつてイタリアのセリエAには、自由な発想と唯一無二のプレーで観客を熱狂させた数々の名手がいた。しかし、戦術が進化し、選手に求められる役割が細分化された現代サッカーにおいて、そうした個性はかつてほど目立たなくなっている。彼らの才能はいかにして花開き、何を成し遂げ、どのような人生を歩んだのか。栄光も挫折も含め、カルチョを彩った天才たちの足跡をたどる。第2回は、パルマでは中田英寿押しのけて司令塔を務めるも、アッズーリには届かなかった“未完の天才”ドメニコ・モルフェオ。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
名伯楽が認めた「最高の才能」。アタランタが生んだ天才

アタランタでキャリアをスタートさせたドメニコ・モルフェオ【写真:Getty Images】【写真:Getty Images】
現代サッカーは、脚力、スピード、フィジカルが求められる。このどれをも持ち合わせてはいないが、圧倒的なテクニックを有した者がいた。
ドメニコ・モルフェオ。90年代後半からゼロ年代にかけて、天才肌のプレーヤーとしてその名を馳せた。
典型的な“ヌーメロ・ディエチ(10番)”であり、トレクアルティスタ(攻撃の司令塔)であり、そしてまぎれもなくファンタジスタであった。それはほんの一握りの選手にしか与えられない、最大級の賛辞である。
モルフェオの才能は10代の頃から抜きん出ていた。アシスト能力に長けるだけではなく、得点能力も突出していた。セリエAでの通算54得点が如実に物語る。
モルフェオは1976年1月16日、ペッシーナの生まれだ。イタリア中部アブルッツォ州ラークイラ県の小さな町である。
アブルッツォ州で開催された大会でモルフェオは、スカウトのアルフレード・モスコーニによって発掘され、アタランタの下部組織に入団する。1990年、モルフェオが14歳の時だった。その翌年には、近年のアタランタ下部組織をイタリア屈指の育成組織に築き上げた功労者の一人、ミーノことフェルモ・ファヴィーニが加わる。
ミーノの指導のもと、多くの選手がここから巣立っていった。
アレッシオ・タッキナルディ、マッシモ・ドナーティ、ルチャーノ・ザウリ、そして双子のクリスティアン・ゼノーニとダミアーノ・ゼノーニ、リッカルド・モントリーヴォ、ジャンパオロ・パッツィーニ、ロランド・ビアンキ、シモーネ・パドイン、アレックス・ピナルディ、イヴァン・ペリッツォーリ、そしてモルフェオもその一人だ。
さらに、ダヴィデ・ザッパコスタ、マッティーア・カルダーラ、フランク・ケシエ、ロベルト・ガリアルディーニ、アンドレーア・コンティ、アンドレーア・コルパーニもミーノによって、プロフェッショナルの世界に足を踏み入れることになる。
そのミーノは2019年4月23日に他界。享年83歳だった。
ミーノは、生前にイタリア紙『コッリエーレ・デッロ・スポルト』のインタビューで、モルフェオをこう評していた。
「私がこれまでに見た中で最高の才能の持ち主は、間違いなくモルフェオだった。彼は、驚くほど自然にボールと親しんでいた」
数多くの優れた選手を育ててきたミーノにとって、モルフェオは“最高傑作”と呼べる存在だった。
また、リーグ選手協会のインタビューでは、このように当時を振り返っている。
「生まれ持った才能の持ち主だった」
「そのため、チームメートは彼のプレーを理解できないことがよくあった。意図を読み取れなかったのだ。モルフェオは、若いのに、非常に不思議なプレーをしていた。すべてが見えているようだった。前にも後ろにも目があるかのように。技術的には完璧に近く、私たちはみんな、モルフェオのキャリアがもっと素晴らしいものになると期待していた」
「トッティやデル・ピエーロになれた」天才に足りなかったもの

地元では「小さなジーコ」を意味する「ズィキット(Zichitt)」という愛称で呼ばれていたドメニコ・モルフェオ【写真:Getty Images】
また、アタランタ時代のチームメートのザウリも、ミンモ(モルフェオのニックネーム)について『Notizie.com』のインタビューでこう語っている。ザウリは、モルフェオの同郷で、キエーヴォ・ヴェローナやSSラツィオ、フィオレンティーナ、サンプドリアなどでプレーしたDFだ。
「モルフェオはとてつもない才能の持ち主だった。残念ながら、キャリアはそれほどのものではなかった。(アレッサンドロ・)デル・ピエーロや(フランチェスコ・)トッティのような選手にもなれたはずだ……」
モルフェオは、アタランタ下部組織時代、多くのタイトルを手にした。U-17カテゴリーのカンピオナート・アッリエーヴィ・ナツィオナーリ(全国U-17選手権)、カンピオナート・プリマヴェーラ(全国ユース選手権)、トルネオ・ディ・ヴィアレッジョ(国際ユース大会)、トロフェオ・ドッセーナ(国際ユース大会)などだ。
さらには、U-21イタリア代表でも1996年大会で欧州の頂点に立っている。決勝では開催国のスペインをPK戦の末に倒し、優勝した。その決勝では同い年のトッティに代わって出場し、最後のPKを決めたのがモルフェオだった。
ザウリはさらに続ける。「身体能力では、デル・ピエーロとトッティに少し劣るところがあったが、彼は本当にサッカーの天才だった」
トッティのような力強さはなく、デル・ピエーロのような卓越したドリブルの技術も持ち合わせていなかった。
それ以外にもモルフェオには決定的なものが欠けていた。
それは、モルフェオ自身が語っている。2025年11月24日、『ラ・ガッゼッタ・デッロ・スポルト』によるインタビューである。
「常にプロフェッショナルでいられなかったことが残念でならない。別の考え方をしていたら、自分はいったいどこまで行けていただろうかと。自分に足りなかったのはそこだった。私は、走るのもトレーニングをするのも好きではなかったんだ」
モルフェオに足りなかったもの、それは「努力するという天才」だった。「想像力の天才」は持っていたが、彼に欠けていたのは「努力」であった。
恩師との再会。中田英寿から奪った司令塔の座

パルマACではチームの中心として活躍したドメニコ・モルフェオ【写真:Getty Images】
アルベルト・ザッケローニが指揮した1998/99シーズンのミランに、モルフェオはフィオレンティーナからのレンタルで移籍した。
「10」番を背負ったズヴォニミール・ボバン、ブラジルの貴公子レオナルドといった天才を擁したチームに、背番号「30」番のモルフェオに居場所はなかった。チームは優勝したが、出場は11試合に限られ、公式戦で得点はなかった。
「自分らしく自由に感じられた場所は、自分が優れていると感じられた。パルマ、ベルガモ、ヴェローナがそうだった。戦術上の指示に従うのは、好きではなかった」
2000年冬にレンタルで移籍したエッラス・ヴェローナで転機が訪れる。アタランタ・プリマヴェーラ時代の恩師、チェーザレ・プランデッリとの再会だ。
「感謝を伝えるとしたら、プランデッリだ。監督は私をデビューさせてくれたし、第二の父親のような存在だった。知識が豊富で、能力があり、聡明な監督だった。出会った中で最高の監督であり、間違いなくヨーロッパでも屈指の監督の一人だ」
プランデッリとは、インテルでの不遇をかこった直後の2003年から所属したパルマACの最初のシーズンにも再会した。インテル時代に続き「10」番を託されたモルフェオは、2003/04シーズンにようやく自分の居場所を見つけた。
当時のパルマACには、加入3年目を迎えた中田英寿も在籍していた。中田もまた、モルフェオと同じ攻撃的MFでプレーしていた。
それまで「10」番を背負っていた中田は、前シーズンに31試合に出場していたが、モルフェオの加入後は出場機会が減り、守備的MFを任されることも多くなった。司令塔のポジションはモルフェオが奪い取り、2004年冬の移籍市場で中田はボローニャFCへ移籍した。
こうしてモルフェオは、アルベルト・ジラルディーノらとともに、チームの中心選手となっていった。モルフェオは、そのジラルディーノとのコンビが今でも思い出深いと話す。
「パルマでジラと一緒にプレーしたのは楽しかった。驚くかもしれないが、トレーニングでは誰もジラと組みたがらなかった。手を使ってもゴールを決められないくらいだったから。ところが、アドリアーノが負傷すると、彼はゴールを量産し始めた。どれだけのアシストを私がしたことか……」