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コラム 2026.10.15 11:03

元鹿島アントラーズ・濃野公人「成功例がないのも当たり前」。24歳で欧州ではなくアメリカ・MLSを選んだ理由【単独インタビュー】

シリーズ:コラム text by 元川悦子 フリーライター photo by Getty Images,D.C.ユナイテッド

D.C.ユナイテッドの濃野公人
D.C.ユナイテッドの濃野公人【写真:D.C.ユナイテッド】



 2024年に関西学院大学から鹿島アントラーズへ加入し、右サイドバックながらルーキーイヤーに9得点を挙げ、Jリーグベストイレブンにも選ばれた濃野公人。右ひざの負傷を乗り越え、2025年のJ1制覇にも貢献したが、今年7月、アメリカ・メジャーリーグサッカー(MLS)のD.C.ユナイテッドへ移籍した。なぜ欧州ではなくアメリカだったのか。10月初旬の単独インタビューで、移籍交渉の舞台裏と鹿島を離れるまでの葛藤を語った。(取材・文:元川悦子)[1/1ページ]

オファーから3日後にGMが来日。心を動かした「熱量」

鹿島アントラーズ監督鬼木達監督と濃野公人
鹿島アントラーズ監督・鬼木達監督とコミュニケーションをとる濃野公人【写真:Getty Images】



「海外移籍は自分のキャリアの選択肢の1つとしては少なからずありました。でも『とにかく海外に行きたい』と考えていたわけではなかった。『そういうのはJリーグで頑張った先で考えること』と自分の中で捉えて、鹿島でのプレーに専念していました。

 そんな自分にD.C.からの移籍話が来たのは、2026年J1百年構想リーグが終わったシーズンオフの頃。僕自身は気持ち的にもいったん保留したんです。

 それから3日後に向こうのGMがいきなり東京まで来てくれた。話をもらって3日後に日本に飛んできてくれるとは考えていなくて、本当に驚きました。そこで僕のキャリアの考え方をよく聞いてくれて、寄り添う提案をしてくれたので、結構しっくりきました。

 今まで感じたことのないくらいの熱量を感じたんで、『前向きに考えようかな』という気持ちになったのは事実です」

 濃野はストレートに移籍の経緯を語り始めた。それでもすぐに返事をせず、7月7日には鹿島で26/27シーズンに向けて始動。9日には福島・Jヴィレッジでのキャンプに参加した。中田浩二フットボールダイレクター(FD)と鬼木達監督とは毎日面談し、「もう1年残ってほしい」と強い要請を受け、彼自身の中でもかなり揺れ動いたが、最終的には渡米を決意する。

「D.C.が欲しがっているという部分もありましたけど、アメリカ挑戦に物凄いワクワク感を覚えたのが大きかったですね。始動のタイミングで鹿島を離れることは本当に申し訳なかったですけど、選手として大きく飛躍するためには必要な決断だったんじゃないかなと思います」と濃野は毅然と言う。

「アメリカで成功する1人目に」。欧州ではない選択への覚悟

LAFC戦でMOMに選ばれた濃野公人
LAFC戦でMOMに選ばれたD.C.ユナイテッド濃野公人【写真:D.C.ユナイテッド】



 7月29日に移籍が正式発表された時、関係者やメディア、サポーターから「なぜ欧州じゃないのか」「先を見据えるなら欧州を選ぶべき」といった声が高まった。実際、今の日本代表を見ても欧州組が大半を占めており、MLSで活躍していても、2022年カタールワールドカップ(W杯)の代表キャプテン・吉田麻也(LAギャラクシー)でさえも招集には至らなかった。

 今年引退した久保裕也、今夏からLAギャラクシーに赴いた古橋亨梧のように「欧州→アメリカ」という道を辿るベテランも多く、これからステップアップを目指す濃野にとってはマイナスではないかと見る向きも多かった。

「そういう声が出るのも分かっていました。だからと言って、行かないという選択肢は僕の中にはなかった。自分は今、24歳ですけど、この年齢でのアメリカ挑戦がいいことなのか、それとも悪いことなのかを決められる材料は、現時点での日本には存在しない。誰も行ったことがないから成功例がないのも当たり前の話。にもかかわらず『これは失敗だ』と言われるのもちょっと違うかなと思うんですよね。

 正直言って、僕自身もアメリカの話をもらった時、MLSに対しての偏見がなかったかと言えばそうじゃなかった。MLSのリーグレベルや肌感を全く知らない状況だったんで、そういう意見が日本国内で出てしまうのは、もう致し方ないことかなと。それでも、みんなの考えを僕自身が変えていけるんだという前向きな気持ちにもなりました。

 欧州の中堅国リーグに行って、海外の最初のステップを踏み出すのが美徳とされている今、僕がアメリカで成功する1人目になれれば日本サッカーのためにもなるという強い気持ちがこみ上げてきましたね」

 未知なる世界を貪欲に突き進む勇敢さが濃野の武器だ。関学から2024年に鹿島入りした時も、周りには日本代表経験のある柴崎岳や大津高校の先輩・植田直通がいたし、鹿島の看板・鈴木優磨がいて、常勝軍団の精鋭たちから厳しい要求もされただろう。そこでめげる若手も少なくない中、濃野は「勝ちたい」「成長したい」という信念を持って、遠慮することなく堂々と立ち振る舞った。

 大津の恩師・山城朋大監督も「濃野のような優れたキャプテンは大津の長い歴史の中でもなかなかいない」と人間力を高く評価していたが、そういう人物だからこそ、あえて成功例の少ないアメリカで一旗揚げようという野心が生まれたのかもしれない。

初めてのアメリカ生活。新天地への適応を支えた2人の日本人選手

黒川圭介とトレーニングする濃野公人
黒川圭介とトレーニングする濃野公人【写真:D.C.ユナイテッド】



 正式発表は7月29日だったが、濃野はそれより少し前に慌ただしく渡米し、新天地に合流した。大阪で生まれ、福岡で育ち、熊本、大阪を経て、鹿嶋に赴いた濃野はアメリカ旅行をしたことがなかった。アメリカの首都・ワシントンという都市がどういうところなのか、全く想像もつかなかったはずだ。

「D.C.の練習拠点が郊外にあるので、僕自身も住んでいるのは郊外なんです。だから鹿島と似てる感じはありますね。最初はホテル暮らしで車をゲットするまでに時間がかかった。その前段階のビザ取得にも戸惑いました。海外で生活してサッカーをするためには、乗り越えなければいけないハードルがあるんだなと感じました」と本人は笑う。

 言語に関しても難しさはある。大卒の濃野は基本的な英語力はあったし、いつか訪れるかもしれない海外移籍のチャンスを見越して自主学習も続けていた。とはいえ、現地のネイティブイングリッシュは本当に難解だ。筆者の経験でも、ネイティブ以外の人間が話す英語の方が日本人にとっては分かりやすいが、アメリカやオーストラリアは一気にハードルが上がる。そこで生活していくのは並大抵のことではないだろう。

「シーズン途中の加入だったので、どうなるかと思ったんですけど、D.C.には黒川圭介君と木島萌生という2人の日本人選手がいて、2人とも温かく迎えてくれたので、本当に有難かったですね。

 圭介くんとはそれまで面識がなかったですけど、先にJリーグから行っていたので心強い存在でしたし、木島に関してはアメリカで育って英語もネイティブなので、私生活の面までサポートしてもらいました。彼は陽キャなんで、木島のそばにいたら、みんなと打ち解けられるという感じ。実際、溶け込むのもすごく早かったですし、そこはあまり苦労しなかったと思っています」と濃野は2人の日本人プレーヤーの援護射撃に感謝した。

 こうして濃野は2026年北中米W杯が行われたばかりの新大陸で新たな一歩を踏み出したのである。

※単独インタビュー第2回は明日(16日)更新予定!

(取材・文:元川悦子)

【著者プロフィール:元川悦子 フリーライター】
1967年、長野県生まれ。94年からサッカー取材に携わり、ワールドカップは94年アメリカ大会から2022年カタール大会まで8回連続で現地に赴いた。「足で稼ぐ取材」がモットーで、日本代表は練習からコンスタントに追っている。著書に『U-22』(小学館)、『黄金世代』(スキージャーナル)、「いじらない育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(NHK出版)、『僕らがサッカーボーイズだった頃』シリーズ(カンゼン)などがある。

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【了】

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