異端の天才 金田喜稔の「超常識」(前編)

『破天荒に生きた名手からの叱咤激励』
型破りなプレーヤーとして、破天荒な時代を駆け抜けた金田喜稔氏は、日本の現状をどのように捉えているのだろうか? 「異端の天才」と呼ばれた男の持論を聞いた。

2012年12月20日(Thu)19時35分配信

text by 海江田哲朗 photo Kenzaburo Matsuoka
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【後編はこちらから】 | 【サッカー批評issue56】掲載

破られない最年少ゴール記録

 1977年6月15日、ソウル運動場で行われた日韓定期戦。この試合は、国際Aマッチ76試合75得点を記録した稀代のストライカー、釜本邦茂の日本代表ラストマッチ(引退試合は同年9月14日、ニューヨーク・コスモス戦)として知られるが、新時代の旗手によって現在に至るまで破られていない記録が打ち立てられた日でもあった。

 日本代表監督を務める二宮寛から抜擢された若手のホープ。名を金田喜稔という。当時、中央大学の2年生になったばかりだった。56分、釜本がセンターサークル付近、やや右寄りの位置でボールキープ。そこから逆サイドでフリーになっている金田まで、弾丸のようなロングパスを通してきた。

 金田は胸でトラップし、瞬時に判断する。ゴールまで30メートル以上はある。いつもならここからドリブルを仕掛け、突破を図る場面だ。足技とスピードを駆使し、相手をケチョンケチョンにしてこそ俺のサッカーだという強烈な自負心があった。

 だが、もしボールを失ったらどうなる。韓国のカウンターは鋭利だ。試合は0‐2で負けていた。足元に落とした瞬間、ディフェンダーは一気に距離を詰めてくるだろう。

 撃ってしまえ――。

 金田はボールの落ち際を左足ですくい上げるように叩く。ドライブ回転のかかったシュートは、ゴールキーパーの頭上から急降下。ズバッとネットに突き刺さった。

 ソウル運動場は異様な静寂に包まれた。まさかオフサイドか、と思ったほどだ。レフェリーの笛と手振りでようやくゴールを確信した。会心の一撃であり、まして利き足とは逆の左足であれほど鮮やかなゴールを決めたのは、生涯を通じて記憶にない。このとき金田は19歳と119日。数字の意味するところを知るのは、ずいぶんあとになってからである。

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