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Jリーグ 11年前

日本の名GM鈴木満が語る『鹿島の流儀』

text by 宇都宮徹壱 photo by Kenzaburo Matsuoka

鈴木とジーコとの出会い

 鈴木とジーコとの出会いは91年にまで遡る。住友金属サッカー部の監督となって3年目。当時34歳の青年監督は、いきなりブラジルが世界に誇るスーパースターを選手として迎えることとなった。

「想像もつかなかったですね。(住金の)Jリーグ入りが決まって、ジーコも来て、僕にとってはとんでもないことになったなという……。ただ、あれだけの選手で、あれだけの人物ですから、そこは『教えてもらおう』という割り切ったスタンスで接することにしました。僕よりも年上ということもありましたし、それでよかったなと」

 当時のジーコの印象は、鈴木にとって「神さま」というよりも「よく怒る人」であったという。

「とにかく怒られましたね(苦笑)。いろんな場面で。サッカーそのものの部分もありますが、たとえば練習のスケジュールの組み方であったり、休憩のとり方や食事の摂り方であったり。それと、プロになれば、ただサッカーだけやっていればいいわけではない。スポンサーへの挨拶回りやファンサービスなど、営業的な部分でも選手は協力しなければならない、とかね。とにかく怒られまくりながら、教えてもらったという感じでしたね」

 その後、鈴木はトップチームのヘッドコーチ、そしてサテライトの監督を経て、96年に現場への未練を残しつつも強化部長としてフロント入りする。とはいえ、すぐに「ジーコイズムの継承者」となったわけではなかった。

「その頃のアントラーズは、監督がジョアン・カルロスで、ジョルジーニョもレオナルドもいました。そうした中で、足りていないと感じていたのが、フロントから現場までの一体感や意思疎通でした。クラブとして戦うために、自分はその橋渡しの役割をしなければならない。そう感じていました」

 鈴木によれば、当時の鹿島は、フロントと現場がコミュニケーションをとるのは、契約交渉の時以外、ほとんど無かったという。

「それじゃあ上手くいかない。現場の中でいろんなことが起きて、それを解決するための役割が必要なんです。選手と監督の間、コーチ同士の間、監督とコーチの間。その間にフロントが入る。それが僕の役目でした。現場を同じ方向に向かせて、問題意識を共有するには、そういう部分に重きを置かないといけない。それは(指導の現場にいた)当時から考えていたことでした」

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