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【小嶺忠敏の実像・前編】現・国見高校監督が見た恩師の姿。勝負師として怠らなかったことは?

シリーズ:小嶺忠敏の実像 text by 藤原裕久 photo by Getty Images

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高校サッカー界の名将中の名将、小嶺忠敏が亡くなって約1年が経つ。その勝利至上主義の姿勢が賛否を巻き起こしたこともあったが、前人未到の17度もの全国制覇を成し遂げた。好評発売中の『フットボール批評 issue38』では、小嶺に近しかった周辺の声を多数拾い、名将の人物像を浮き彫りにした。今回は、当該記事から一部抜粋して前後編に分けて公開する。(文:藤原裕久)


小嶺忠敏はオーケストラの指揮者


【写真:Getty Images】

 小嶺監督を「指導者というより勝負師だった」と語る教え子が2人いる。

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 一人は木藤健太。国見OBで現・国見高校監督だ。

「監督としての小嶺先生は、勝負師だったということに尽きると思います。勝つことに対しての緻密さ、鋭さ、準備、戦略、持って行き方のすべてがすごかった。すべてが勝利から逆算されていて、オーケストラの指揮を執るように全体を見ながら、勝つためのチームを作っていた」という。

 もう一人は島原商業OBで、島原商業、国見高校の両方で小嶺監督を支え、のちにはともにV・ファーレン長崎創設にも動いた菊田忠典だ。菊田は勝負師としての小嶺監督を「勝利に対する完璧主義者だった」と振り返る。

「先生は勝つために一から全部詰めていく。どんな相手にも油断をしない。常に相手だけを分析して、自分の手の内は決して明かさない。ただ強くあるための最短距離を考えていた。一発で相手をひっくり返すような手が好きでね。だからカウンターで相手を殴り倒すようなサッカーを好んだ」

 島原商業と国見。両校のOBが異口同音に語った言葉を考えると、小嶺監督が学校や時代に関係なく勝負師であったことは間違いないだろう。そして、勝負師だったからこそ小嶺監督は情報収集を怠らなかった。

 それはスカウティングに限った話ではなく戦術や指導法についても同様だ。JFA主催のコーチングスクールがあると知れば真っ先に受けにいき、新しい練習法があると聞けば、すぐに足を運んで学ぼうとした。S級指導者ライセンス制度が始まったときも、公立校の教員でありながら真っ先に受講している。

 島原商業OBの小林伸二監督が寮に泊まりにくれば、小銭をマーカー代わりに使って戦術談議に明け暮れ、国見での教え子である高木琢也監督がV・ファーレン長崎を指揮していた当時は、練習のみならず、ミーティングまで見学して戦術を学ぼうとした。だからと言って、それで自らのサッカースタイルや指導法を安易に変えはしなかったが、あくまで自身の戦い方に応用できるものは積極的に取り入れようとした。

 小嶺監督にとって学びは、勝利するための準備作業の一つだったのである。

<雑誌概要>

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定価:1,760円(本体1,600円+税)

特集:【永久保存版】高校サッカーの名将は死なない

すべての指導者に贈るサッカーのい・ろ・は

2019年に講談社から刊行された『高校サッカー100年』の7年前、100年史の予行演習版のような『高校サッカー90年史』が出版されていることをご存じだろうか。90年史の制作に携わった関係者に出版の真意を聞くと、「早めにやっておきたかった企画もあったので」という答えが返ってきた。

“早めに”が何を言わんとするかはそれぞれの想像に任せるとして、高校サッカーの名将から発せられる言葉は、時にサッカーの、時に人生の本質を抉ってくるものが多い。もちろん、その言葉には本音と建前が混ざり合っている。表と裏を使い分けているからこそ、高校サッカーの名将たちの言葉は生き続けていくのだろう。

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【了】

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