1月に横浜F・マリノスに加入した近藤友喜。チームの状況が苦しい中、自分自身のプレーにも納得していなかった。だが、東京ヴェルディ戦では、それを払拭するかのように移籍後初ゴールやアシストを記録した。試合後、記者に対して笑顔で対応した同選手だが、笑えない日々の方が長かった。それでも立ち直れた理由には、仲間の存在がある。(取材・文:菊地正典)[2/2ページ]
近藤友喜の心に響いた宮市亮の言葉
名古屋グランパスのジュニアユース時代はレギュラーとしてプレーしている選手で唯一、ユースに昇格できなかった。
そして進学した前橋育英高校では、進路を決める上で重要な3年生の春に骨折を負い、インターハイに出場できなかった。
その結果、当時は関東1部リーグよりカテゴリーが2つ落ちる東京都1部リーグだった日本大学に進学せざるを得なかった。
プロになってからも横浜FC、札幌でJ2降格を経験した。
それでも挫折を乗り越えてきたからこそ、マリノスへの移籍や東京V戦での活躍がある。
町田戦後のショックから立ち直るきっかけを与えてくれたのは、チームメイトなって4カ月ほどの仲間たちだった。
「そんなにネガティブになる必要はないよ」
ロッカールームで肩を落とす近藤にそう話しかけたのは、何度も大ケガを負いながら、そのたびに這い上がってきた宮市亮だった。
日ごろから仲の良い先輩の谷村海那と後輩の井上太聖からは、食事に誘われ元気づけられた。
そして、挫折を味わおうがいつだって自分を信じ続けてきた。今回も仲間たちに支えられながら、腐らずに努力を重ねた。
「日々の取り組みが少し報われた」
そう思えるのも、絶え間ぬ努力があってこそだ。
プレーオフ、来季に向けて意気込む[数字を残せるような選手に…」
町田戦以降もスタメン出場が続いた。
加入当初は周りに合わせることを考えていたが、単なる出場試合数だけではなく出場時間が増えることで、自分の良さを周囲に理解してもらい、自分のリズムでプレーできるようになっていく。
それが、天野に特徴を理解してもらった上でパスをもらえた先制点につながる。
さらに、2点目につながるプレスバックでのボール奪取。
「マリノスに来たばかりのころだったら、おそらくああいうプレーはできなかったと思います。チームがそういうことを求められて、自分自身できるようにならないといけないと取り組んできたプレーです。それがこうして結果につながったのはよかったです」
肩の荷を少しだけ下ろすことはできた。だが、満足はできない。
「なかなか数字が残せない中で本当に苦しかったけど、これでオッケーではないし、これが継続できるかがまたプレーヤーの価値だと思うので、満足せずにやっていきたい。
プレーオフの2試合でどれだけ数字を残せるかだと思うし、来シーズンに向けても結果にこだわって、数字を残せるような選手にならないといけない」
挫折など、ないに越したことはないはずだ。それでも、まるで挫折が栄養であるかのように、乗り越えるたびに強くなってきた。
J1百年構想リーグの残りプレーオフ2試合、そして8月から始まる26/27シーズン。近藤はトリコロールのユニフォームを着て、さらに躍動する姿を見せてくれるはずだ。
(取材・文:菊地正典)
【著者プロフィール:菊地正典】
福島県出身。埼玉大学卒業後、当時、日本最大級だったサッカーモバイルサイトの編集・ライターを経て、フリーランスに。主にサッカー専門新聞『EL GOLAZO』の記者として活動し、横浜FC、浦和レッズ、ジェフユナイテッド市原・千葉、横浜F・マリノス、川崎フロンターレの担当記者を歴任。著書に『浦和レッズ変革の四年 〜サッカー新聞エルゴラッソ浦和番記者が見たミシャレッズの1442日〜』(スクワッド)、『トリコロール新時代』(スクワッド、三栄書房)がある。Xのユーザー名は@masanorikikuchi
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