日本代表DF菅原由勢が、新たな挑戦の地に選んだのは地中海に浮かぶサルデーニャ島だった。日本人史上15人目のセリエAプレーヤーとして加入したカリアリ・カルチョは、島の人々から世代を超えて愛され続ける特別なクラブだ。その歴史を紐解けば、半世紀以上が過ぎた今なお語り継がれる奇跡のスクデット、そして一人の伝説的ストライカーの存在にたどり着く。菅原が足を踏み入れたカリアリとは、いったいどんなクラブなのか。(文:佐藤徳和)[1/2ページ]
菅原由勢がセリエA初挑戦
カリアリ・カルチョは9月1日、EFLチャンピオンシップ(イングランド2部)のサウサンプトンFCから日本代表DF菅原由勢を獲得したことを正式発表した。移籍形態はレンタルで、買い取りオプションが付帯している。
GK鈴木彩艶がパルマ・カルチョからプレミアリーグのアストン・ヴィラに移籍したことで、セリエAでは日本人選手が不在となっていた。
そこに菅原由勢がカリアリ・カルチョへ移籍。これにより、菅原は今季のセリエA唯一のジョカトーレ・ジャポネーゼ(日本人プレーヤー)となった。
これまでセリエAでは、三浦知良(ジェノア)、中田英寿(ACペルージャ、ASローマ、パルマAC、ボローニャFC、フィオレンティーナ)、名波浩(ACヴェネツィア)、中村俊輔(レッジーナ)、柳沢敦(サンプドリア、FCメッシーナ)、小笠原満男(FCメッシーナ)、大黒将志(トリノFC)、森本貴幸(カルチョ・カターニア、ノヴァーラ・カルチョ)、長友佑都(ACチェゼーナ、インテル)、本田圭佑(ミラン)、冨安健洋(ボローニャFC)、吉田麻也(サンプドリア)、鎌田大地(SSラツィオ)、鈴木彩艶(パルマ・カルチョ)の14人の日本人選手がプレーしてきた。
菅原はセリエA史上15人目の日本人選手となり、カリアリ・カルチョにとってはクラブ史上初の日本人選手となった。
カルチョメルカートが閉幕する直前の移籍劇だった。当初は、USサッスオーロが菅原の獲得に関心を持っているとイタリア・メディア『Sky Sport』が8月28日に報じた。
しかし、その2日後には、カリアリ・カルチョが獲得に近づいていることが明るみに出る。その時、カルチョメルカート閉幕まで1日を切っていた。
交渉は順調に進み、イタリア時間1日には、菅原がローマ市内のヴィッラ・ストゥアルト総合病院に到着する映像が、移籍市場に詳しいイタリア人ジャーナリスト、ジャンルーカ・ディ・マルツィオの「X」で伝えられた。そこには、笑顔をこぼしながらヴィッラ・ストゥアルトに足を踏み入れる菅原が映っていた。
さらに数時間後、菅原はカリアリ・エルマス空港に姿を現す。「ユ・キ・ナ・リ、ユ・キ・ナ・リ! ユーキ!」の声援が沸き起こる。
子どもたちや男性ファンだけでなく、年配の女性サポーターも日出づる国のジョカトーレの到着を待ちわびていた。その女性は菅原にサインを求めると、カリアリ・カルチョのフラッグとマフラーを手渡し、「フォルツァ・カリアリ(がんばれ、カリアリ)」と声援を送った。
老若男女に愛されるクラブ、それがカリアリ・カルチョだ。
カリアリ・カルチョの歴史を語る上で欠かせないもの
カリアリは、地中海でシチリアに次いで2番目に大きな島、サルデーニャの州都で、島の南に位置する。大都市圏カリアリには約52万人、カリアリ市には約14万人が暮らしている。
飛行機では、ローマのフィウミチーノ空港から約1時間。ローマの北にあるラツィオ州の港町、チヴィタヴェッキアからはフェリーも出航しているが、こちらは約13時間から15時間を要する。
カリアリは、サルデーニャ語では「カステッドゥ(Casteddu)」と呼ばれ、「城」を意味する。そのため、スタジアムでも、この「Casteddu」の文字が頻繁に見られる。
1920年創設のカリアリ・カルチョは、ただの一地方都市のクラブではない。1970年にスクデットを獲得した歴史を持つ高名なクラブである。
彼らのセリエA制覇を語る時、この男の名前を忘れてはならない。イタリア史上最も偉大なストライカー、ジージ・リーヴァ。カリアリ・カルチョとともに歩んできた歴史の一部だ。
リーヴァがキャリアをスタートさせ、生まれ故郷のクラブであるACレニャーノ(セリエC)に所属した1962/63シーズンを除き、引退するまでの14シーズンをカリアリに捧げた。
1960年代、サルデーニャは「誘拐の島」として、本土の人間から恐れられていた。島は山岳地帯や荒れた土地が多く、人質を隠しやすかったため、山賊などが誘拐を行っていた。そのため、リーヴァは、インテルでプレーすることを望んでいた。
当時、カリアリ・カルチョはセリエBに所属していた。島のクラブで、旅費や滞在費を抑えるため、「ホームで2試合」「アウェイで2試合」というように試合が組まれ、カリアリ・カルチョが本土での滞在先としていたのが、まさにリーヴァの故郷である、ミラノ北西に位置するロンバルディーア州レニャーノだったのだ。
ボローニャFCも獲得に乗り出していたが、最終的にカリアリ・カルチョが獲得に成功。ここに、カリアリのリーヴァが誕生するのである。
19歳のリーヴァは、1年目にセリエBで8ゴールを決めると、チームは2位でセリエBを終えて昇格を果たす。ここから、リーヴァの成長と共に、カリアリ・カルチョも徐々に順位を上げていく。
1966/67シーズンには、リーヴァは18得点をマークして得点王。チームは6位でフィニッシュした。2年後のシーズンも20得点を奪い最多得点者となり、チームは2位。優勝したフィオレンティーナとは勝ち点4差で、惜しくもタイトル獲得を逃した。
そして伝説の1969/70シーズン。もはや「ロンボ・ディ・トゥオーノ(リーヴァの愛称で『雷鳴』の意味)」を抑えられるものはいなかった。
リーヴァがもたらした唯一の栄光
4シーズンで3度目の得点王。チームは1970年4月12日、本拠地アムシコラでASバーリを2-0で下すと、インテル、ユヴェントスとの優勝争いを制して、初めてセリエAの頂点に立つのであった。
当時のカリアリの熱狂は尋常ではなかった。
サッカー界の“ポール・ニューマン”と呼ばれた精悍な顔を持つリーヴァは、女性たちをも夢中にさせ、逃亡犯までもがスタジアムに姿を現すほどであった。
インテルやユヴェントスがリーヴァの獲得に迫るが、本人が移籍に応じることはなく、やがて、リーヴァはサルデーニャに心を奪われ、サルド(サルデーニャの人の意)の一人となっていくのであった。
しかし、次第にリーヴァも衰え、チームも順位を落としていくこととなる。1975/76シーズンは、16チーム中最下位に終わり、ついにセリエBに降格となった。
それから、すでに半世紀以上が過ぎ、リーヴァもすでに帰らぬ人となってしまったが、優勝の瞬間は今もまだ色褪せてはいない。親から子へ、そしてその子からまた子へ、カリアリの奇跡は未来永劫、語り継がれていく。
リーヴァがチームを去ってから、セリエA残留がチームの目標となってしまったが、彼らの熱狂が冷めてしまったわけではない。サルデーニャ・アレーナには、相手がどんなチームであっても、多くのサポーターが詰めかけている。
2025/26シーズンは、プリマヴェーラ(下部組織)を指揮していたファビオ・ピザカーネがトップチームの指揮官に就任。第5節から第13節まで勝てない時期が続き、また、終盤戦では第31節までに4連敗を喫するなど、苦しい時間も過ごした。
だが、最後の2試合ではトリノFCとミランに2連勝。最終的に14位でシーズンを終えている。



