フットボールチャンネル

J1 7時間前

「2位も最下位も一緒」だった“あの頃の”強さが蘇ったわけ。突き詰めた「らしさとは何か」の答え【鹿島アントラーズ 33年間の記憶/連載コラム第1回】

シリーズ:鹿島アントラーズ 33年間の記憶 text by 元川悦子 photo by Getty Images
鹿島アントラーズ
9年ぶり9度目のJ1リーグ制覇を成し遂げた鹿島アントラーズ【写真:Getty Images】



 9年ぶり9度目のJ1リーグ制覇を成し遂げた鹿島アントラーズ。近年はタイトルと無縁のシーズンを過ごすことが多かった常勝軍団は、どのようにして強さを取り戻したのか。Jリーグ開幕当時から続く歩みを振り返りながら、かつての黄金期と現在のチームにある共通点、今に繋がる変化などを、長年鹿島を取材し続ける元川悦子氏の言葉から探っていく。今回は第1回(全6回)。(取材・文:元川悦子)[1/2ページ]
——————————

レジェンドによって受け継がれた鹿島のDNA

鹿島アントラーズ、早川友基
MVPに輝いた鹿島アントラーズの早川友基【写真:Getty Images】

 2025年、J1で9年ぶりのタイトルを獲得した鹿島アントラーズ。12月11日のJリーグアウォーズで守護神・早川友基がMVPに選ばれ、植田直通とレオ・セアラがベストイレブン入りを果たすなど、個人的にも飛躍を遂げた選手が数多くいた。

 こうした面々の力を引き上げたのが、川崎フロンターレ時代に国内7冠を獲得した鬼木達監督、柳沢敦・中後雅喜両コーチ、曽ヶ端準GKコーチ、中田浩二フットボールダイレクター(FD)ら、現場に携わった鹿島レジェンドたちである。



「自分は選手の時、あまりチームに貢献できなかったので、指導者として恩返しがしたかった」と鬼木監督は神妙な面持ちで話したが、彼らが常勝軍団・鹿島のDNAを引き継ぎ、今の選手たちに植え付けたのは紛れもない事実だろう。

「鹿島は絶対にタイトルを取らなければいけないチーム」と植田や鈴木優磨ら年長者たちも口を揃えていたが、そういう意地とプライドを今季、より一層根付かせたことは、特筆すべき点と言っていい。

 そこで今、改めて鹿島のこれまでの歩みを振り返ってみることにする。

J発足直後からタイトルを総なめにしたスター軍団

鹿島アントラーズ、ジーコ
鹿島アントラーズのレジェンド、ジーコ【写真:Getty Images】

 住友金属(現日本製鉄)を前身とし、カシマサッカースタジアム(現メルカリスタジアム)の建設という“ウルトラC”によって、オリジナル10の一角に滑り込んだ彼らは、リーグ開幕当初から勝負強さを見せつけた。

 93年第1ステージの優勝という結果がそれを物語っている。

 同年の鹿島はジーコ、アルシンドらブラジル人助っ人に加え、ベテランDFの大野俊三、中堅の黒崎比差支(ミャンマー代表監督)、奥野僚右(JFA・Proライセンスチューター)、若手の秋田豊、本田泰人らが活躍。

 同年のチャンピオンシップで三浦知良擁するヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)に敗れたものの、瞬く間に強豪クラブの仲間入りを果たすことに成功したのだ。



 この93年に市立船橋高校から加入したのが鬼木監督だった。

 リーグ戦出場は95~97年の20試合にとどまったが、鈴木満フットボールアドバイザーが「鬼木はナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)制覇に貢献している」と言うように、カップ戦などで力を発揮していた。

 当時の中盤にはレオナルドやビスマルクといったスター選手がいたため、鬼木監督が控えに回るのもある意味、やむを得ないことだった。

 それだけの優れた戦力がいたからこそ、鹿島はJ発足5年間でJリーグ1回(96年)、ナビスコカップ(ナビスコ杯)1回(97年)、天皇杯1回(97年)と国内3大タイトルを獲得。名実ともにトップクラブに躍り出ることができたのだ。

「2位も最下位も一緒」「最終的に首位にいないと何の意味もない」

鹿島アントラーズ、柳沢敦
2007シーズンのタイトル獲得に貢献した鹿島アントラーズ、柳沢敦【写真:Getty Images】

「僕らの頃の鹿島は『2位も最下位も一緒』『最終的に首位にいないと何の意味もない』というのが当たり前の考え方だった」と秋田も強調したことがあったが、本当に優勝以外は許されないというピリピリ感が漂っていた。

 96年入団の若手だった柳沢コーチは、その空気と責任感を自身に刷り込んだに違いない。

 この“第1期黄金期”のクラブ哲学を引き継ぎ、大きく発展させたのが、98年入団の小笠原満男(現アカデミー・テクニカル・アドバイザー)、本山雅志(アカデミー・スカウト)、中田、曽ヶ端ら79年組だろう。

 99年ワールドユース(現U-20W杯=ナイジェリア)で準優勝した彼らのタレント力は頭抜けており、早くから試合に出始め、98~02年にかけての“第2期黄金期”を担ったのだ。



 とりわけ鹿島が突出した力を誇ったのが、J1・ナビスコ杯・天皇杯の3冠を達成した2000年。79年組や柳沢、平瀬智行(現仙台強化部担当部長スカウト)ら20代半ばのタレントと30歳前後の本田、秋田、名良橋晃、相馬直樹といったベテランが確実に融合。圧倒的な勝負強さを見せつけたのだ。

 そして、柳沢や曽ヶ端、小笠原らが年長者となって、2007~12年の”第3期黄金期”への基盤を作った。

 特に2007年は、出番が減った柳沢がベテランとしてチーム全体をリード。夏にイタリアから戻ってきた小笠原が活力を与え、スター軍団だった浦和レッズをかわして逆転でJ1制覇を達成した。

 中後も途中出場でギアを上げる存在として優勝に関与したのだ。

1 2

KANZENからのお知らせ

scroll top
error: Content is protected !!