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在日と帰化 アイデンティティと格闘する在日フットボーラーの軌跡(中編)

在日コリアンは心の中で格闘する。自分のアイデンティティはどこにあるのか、と。それゆえに「帰化」への思いは複雑だ。彼ら自身の葛藤と戦いの軌跡を在日記者が描く。

text by 河鐘基

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帰化しても「李」という名にこだわった李忠成

 サッカーと在日選手を取り巻いた環境も他のスポーツと似ていた。

 Jリーグが発足するかなり以前、日本の大学リーグでは数多くの在日プレーヤーが活躍していた。58年に中央大学初の全国優勝した時のメンバーだった金明植、58年、59年の関西学院大学が天皇杯連覇した際の立役者だった李昌碩、法政大学の姜昌允、立教大学の安成基などがそうだ。

 李昌碩などは「関学のリー」としてその名を馳せ「当時のサッカー界で文句なしの最高の選手」という賛辞を川淵三郎(日本サッカー協会名誉会長)から送られている。彼は多くの企業からの誘いを受けた。また、日本代表(当時の監督・竹腰重丸)からの打診も受けている。しかし、李昌碩はそれらの誘いをすべて断っている。そのすべての誘いが日本名に変えることや、帰化を前提とした条件つきだったからだ。

 いまは亡き李昌碩は生前のインタビューでこう言っている。

「私は父から朝鮮人としての誇りを持って生きろと教えられた。だから学生時代から名前も李昌碩で通したし、自分の国籍にもこだわった。そのために差別もされたし、悔しい思いもたくさんしてきたが、自分の選んだ道を後悔はしていない」

 彼は、出自を隠すことや帰化することでスポットライトを浴びるよりも、民族的なアイデンティティを守ることを選択したのだ。彼のように、民族的なアイデンティティを守ることで、日本社会での華々しい活躍を断念した在日サッカー選手は決して少なくない。

 このように総合的に見ていくと、帰化という問題は、在日コリアンたちにとって一種の踏み絵のようなものだったといえる。民族的アイデンティティを取るか、スポットライトを取るかという激しい葛藤を呼び起こす踏み絵。それゆえに、帰化という問題は、在日アスリートたちにとって“手頃で簡単な選択肢”になりえないのだ。

 そういった理由から、帰化を選んだ李忠成に対して、否定的な見解を示す在日コリアンも一部には存在するのも事実だ。

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