ルッシェンブルゴの後任としてセレソン監督に。しかし…
ブラジル国内で意外だと受けとめられていたのは、サントスの繰り広げるサッカーの質だった。
ロビーニョを代表とした個人技、イマジネーション豊かな攻撃サッカーをレオンは好まないと思われていた。
「みんなの目が行くのはロビーニョやジエゴという派手なテクニックの選手だろう。しかし私たちのチームには、彼らだけでなくマンマークの上手い選手もいる。こうした選手がいることで、ロビーニョたちが守備を考えずに創造性を活かすことができる。役割を分けているんだ」
「あなたがそんなに物わかり監督だと思っていなかった」と返すとレオンはからからと笑った。
「若い選手と仕事をするので、自分も変わらなくてはならなかったのさ」
そのレオンもブラジル代表監督では苦い思いをしている。
彼は2001年にバンデルレイ・ルッシェンブルゴからブラジル代表監督を引き継いだ(1試合だけ、ルッシェンブルゴのアシスタントコーチだったカンジーニョが監督を務めた)。
初戦は2002年W杯南米予選のコロンビア戦だった。ホームでブラジル代表は1対0で辛勝、しかし、その後はエクアドルにアウェーで0対1で敗れ、ペルーにホームで1対1と引き分けた。そして、日本と韓国で開催されたコンフェデレーション杯に臨んだ。
このコンフェデ杯はW杯前哨戦という位置づけである。それなりに名前の通った国際大会にも関わらず、無名の選手ばかりのセレソンだった。
【次ページ】「B代表以下」だった理由