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Jリーグ 7年前

横浜Fは「舐められていた」。だから消滅した。サポーターグループのリーダーが知る真相【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

シリーズ:フリューゲルスの悲劇:20年目の真実 text by 宇都宮徹壱 photo by Tetsuichi Utsunomiya, Getty Images

サポーター仲間はもはや疑似家族だった

 仕事ですか? 営業だったので、ホワイトボードにしれっと「横浜」とか書いて、どこかでユニに着替えて三ツ沢に行くみたいな(笑)。水曜のアウェイは、有給だと足りないので、偽装の冠婚葬祭を作り上げました(笑)。そのうち職場で「TVに映ってたよ」とか言われて。

 ほら、当時は地上波でもJリーグがいっぱい流れていたじゃないですか。あんまり真剣に応援していたから、職場でも半ば公認みたいな感じになっていたんです。でも、そのうち有給もなくなったし、いろいろ言い訳を考えるのが疲れたので、途中で会社は辞めてしまいました。

 当時のフリューゲルスの応援って、すでに2つのグループに分かれていたんです。球団公認の『横浜JETS(ジェッツ)』と非公認の『TIFOSI(ティフォージ)というのがあって、私はJETSのほうに入っていました。JETSはサンバによるブラジルスタイルの応援だったんですけど、TIFOSIのほうはヨーロッパスタイルだったんですね。

 彼らの言い分としては「ウチはゾーンプレスだし、フリューゲルスもドイツ語だから、応援もヨーロッパだろう」と。それも一理あるけど、当時の外国人選手はブラジル人が多かったから、サンバで応援するのが自然だと私は思っていました。

 応援の考え方が根本から違っていたから、JETSとTIFOSIの仲は良くなかったですね。お互いに関わろうともしない。どちらも勝手に応援するから、音が被って汚くなるんですよ。だからグチャグチャな応援でしたね(苦笑)。

 選手のほうも、ひとつにまとまってほしかったみたいです。そのうち、オフィシャルサポーターズクラブを運営している会社が手を引くことになって、JETSは(95年シーズン終了後に)解散することになったんです。

 ただ、運営会社が撤退してもJETSにいたサポーターの受け皿は必要だったし、使っていた楽器も安く譲ってくれるという話だったんです。それで96年に新しく『ASA AZUL(ポルトガル語で「青い翼」)』というサポーターズクラブを立ち上げて、JETSの残党が20人くらい集まったんですね。

 で、その年の新年会か、前の年の忘年会か忘れたんですけど、「リーダーは環ちゃんにお願いしたい」って話になって、私がASA AZULを仕切ることになったんです。

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