紆余曲折経てたどり着いた日本代表の座。昌子源、雑草魂胸に秘め、いざ韓国戦へ

2017年12月16日(Sat)11時50分配信

text by 元川悦子 photo Getty Images
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人生を変えた高校時代

 遡ること中学時代。昌子は中2の終わりにガンバ大阪ジュニアユースをやめた経験がある。地元の中学が荒れていたうえ、ガンバでも難しい環境に直面。次第に練習から足が遠のいたのだ。宙ぶらりんだった中3の前半は素行不良も見受けられ、両親から怒鳴られることもあったが、本人は「サッカーなんかやらん」と言い続けた。

 そんな少年が心変わりしたのは、米子北高校の入学案内を見たこと。

「これ、メッチャええやん」と目を輝かせた昌子は、母・直美さんと連れ立って学校見学に出かけた。父・力さんの大学の後輩に当たる中村真吾コーチ(現監督)から「練習参加しないか」という誘いが届いていたが、本人は「絶対にサッカーはせえへん」と頑ななままだった。ところが、学校に着いて先輩から誘われると態度が一変。喜んでグランドへ飛び出していく。秘めていたサッカーへの情熱があふれ出た彼は再びボールを蹴るようになったという。

 大型FWとして入学した米子北時代は高1の途中でDFにコンバートされた。城市徳之監督(現総監督)から「DFをやれ」と言われた本人は嫌でたまらなかったが、高2夏の高校総体で水戸商と対戦した際、たまたまやま視察に訪れた鹿島の椎本邦一スカウトの目に留まった。プロ入りを真剣に考えた本人に対し、関西大学サッカー1部・姫路獨協大学監督を務める父は反対。家族会議や親子会談も開かれたが、「どうしても鹿島で勝負したい」と強い意思を示したことで、親が折れる形になった。

 一度決めたら突き進む……。それが、昌子源の生粋のメンタリティなのだろう。
 2011年のプロ入り後も2年間は試合に出られず、チャンスをつかんだ3年目には右ひざ外側半月板損傷で全治4ヶ月という重傷を負ってしまう。

「外から客観的にサッカーを見ることで知識を増やせ」という父の教えを糧にケガを乗り越えた翌2014年、背番号3の先輩・岩政大樹(東京ユナイテッド)がチームを去った。「お前の潜在能力は非常に高い。鹿島を背負って立つセンターバックになれる」という力強い激励を受けた昌子は一気に存在感を高め、同年4月のアルベルト・ザッケローニ監督の国内組代表合宿に初招集されるまでになった。

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