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フランスW杯オランダ代表。“トータル・フットボール”の機能美。衝撃的だったベルカンプのトラップ【私が見た平成の名勝負(8)】

国内外で数多の名勝負が繰り広げられた約30年間の平成時代。そこで、フットボールチャンネルは、各ライターの強く印象に残る名勝負をそれぞれ綴ってもらう企画を実施。第7回は平成10(1998)年7月4日に行われたフランスワールドカップ準々決勝・オランダ代表対アルゼンチン代表の戦いを振り返る。(文:本田千尋)

シリーズ:私が見た平成の名勝負 text by 本田千尋 photo by Getty Images

「人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶する」

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ロベルト・アジャラ(右)と競り合うデニス・ベルカンプ【写真:Getty Images】

 記憶とは当てにならないものだ。デニス・ベルカンプに超ロングパスを通したのはロナルド・デ・ブール…と思い込んでいた。ところが当時の映像を見直してみると、デ・ブールはデ・ブールでも、双子の兄のフランクの方だった。時間帯も勘違いしていた。後半のどこかだと思っていたのだが、ベルカンプが“度肝を抜くトラップ”から切り返して、アルゼンチンに止めを刺したのは、90分のことだったのだ。

 頭の中で記憶がごちゃ混ぜになる。よくあることだ。歩んできた人生を時系列順に正確に覚えている人は、まずいないだろう。人によっては、昨日の昼に何を食べたかすら怪しいのではないか。哲学者ジル・ドゥルーズは「人間は日付よりも動作や笑い声を鮮明に記憶しているものです」と言う。ましてやベルカンプが“度肝を抜くトラップ”で激闘に終止符を打ったのは、20年以上も前のことなのだ。

 1998年7月4日、マルセイユ――。フランスワールドカップの準々決勝、オランダ代表対アルゼンチン代表。舞台となったスタッド・ヴェロドロームは改修前で、現在のような独創的な屋根は取り付けられていなかった。ブラウン管の画面の向こうに、南仏の夏の突き抜けるような青空が見えたことは、はっきりと覚えている。

 それにしても、なぜこの試合を観ようと思ったのだろう。当時、私はサッカーのサの字もない地方都市の高校生だった。振り返れば、小学生の頃にJリーグが始まり、“ドーハの悲劇”を目の当たりにし、いつの間にかサッカーが好きになっていた。中学生の頃、カズがセリエAに挑んだことで、ヨーロッパに興味を持ち始めていた。

日本に勝ったアルゼンチン

 日本が28年ぶりにオリンピック出場を決めたサウジアラビアとの死闘に、ワールドカップ初出場を決めたイランとの死闘に、胸を打たれた。そして食い入るように観たフランスワールドカップ本大会、アルゼンチン戦、クロアチア戦——(クロアチアに負けてグループ敗退が決まったからか、ジャマイカ戦を食い入るように見た記憶がない)。

 日本が初戦で戦った相手だったから、なのだろうか。それからアルゼンチンは決勝トーナメントに進むと、1回戦ではディエゴ・シメオネがデイヴィッド・ベッカムを退場に追い込み、準々決勝に駒を進めていた。日本の一瞬の隙を突いたガブリエル・バティストゥータはインパクトがあったが、かと言って熱心にアルゼンチンを追い始めてもいなかったので、なんとなくタイミングが合ったのだろう。

 調べてみると、98年の7月4日は土曜日である。オランダ対アルゼンチンの試合は、現地時間で16時30分のキックオフ。日本時間は深夜だったが、次の日は日曜日だ。学校はない。そこで何となく“日本が初戦で戦った”アルゼンチンの試合を観ようと思った、そんなところではないか。

 試合が始まる前の選手紹介。バティストゥータだけでなく、オルテガ、クラウディオ・ロペスといった名前が並ぶのを見て、勝手に親近感を覚えた。初戦で日本に勝ったのだからこのまま勝ち進んでくれ…と思ったわけではない。当時、ワールドカップの特集番組では、バティストゥータ、オルテガ、クラウディオ・ロペスの強力FW陣をどう抑えるか、というテーマを頻繁にやっていた(と記憶している)ので、特にその3選手の名前は、サッカーのサの字もない地方都市の高校生の頭にも刷り込まれていたのである。

心を奪われた“トータル・フットボール”

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決勝点をアシストしたフランク・デ・ブール【写真:Getty Images】

 しかし試合が始まると、地方都市の高校生の心を奪ったのは、白と水色の縦縞のユニフォームに袖を通した集団ではなく、赤に近いオレンジ色のユニフォームに身を包んだ集団の方だった。

 GKはエトヴィン・ファン・デル・サール。4バックは、ミヒャエル・ライツィハー、ヤープ・スタム、フランク・デ・ブール、アーサー・ニューマン。中盤にヴィム・ヨンク、ロナルド・デ・ブール、フィリップ・コクー、エドガー・ダーヴィッツ。そしてFWはパトリック・クライファートとデニス・ベルカンプだ。監督は、4年後の日韓ワールドカップで韓国をベスト4に導くフース・ヒディンクである。

 ベンチにも、ジョバンニ・ファン・ブロンクホルスト、クラレンス・セードルフ、ボウデヴィン・ゼンデン、マルク・オーフェルマルス…といった錚々たる選手たちが控えている。調べてみると、このオランダ代表の中核を占めるのは、94/95シーズンのチャンピオンズリーグ(CL)で優勝し、翌95/96シーズンにもCL決勝に進出した、ルイ・ファン・ハール率いるアヤックスの面々だ。

 もちろん、当時サッカーのサの字もない地方都市の高校生だった私が、そんなことを知る由もない。だが、そんな予備知識などなくとも、“トータル・フットボール”の機能美は、なんとなく土曜の深夜にブラウン管の前に座った片田舎の高校生に、絶大なインパクトを残したのである。

 本物とは、素人が見てもそれと分かるものではないだろうか。現代では、普段サッカーを観なくとも、リオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドの名は知っている人は多いだろう。そういった意味では、アルゼンチン代表と相対したオランダ代表の選手たちの「動作」の集成は、まるで後世に名を遺すレンブラントやフェルメールの絵画のようである。

終了間際のロングパスとトラップ

 もちろん当時の私が、鋭く正確なパスワーク、連動したプレッシングやサイドアタック、そして中盤をドリブル突破したロナルド・デ・ブールからのパスを、ベルカンプが頭で優しく落とし、流れるようにして奪ったクライファートの先制点を観て、オランダ代表のサッカーは名画のようで本物だ…と思ったわけではない。そもそもその頃、毎週のようにサッカー専門誌を読んでいたが、“プレッシング”という用語を目にした記憶はない。

 レンブラントやフェルメールの絵画により多く触れたのは、欧州に移り住んでからのことだ。しかし、1-1のまま迎えた試合終了間際に、ベルカンプが見せた1つのトラップから受けた衝撃は、素人が本物を見たときに言葉を失う、まさにその瞬間だったのだ。サッカーのサの字もない地方都市の高校生は、一発でノックアウトされてしまった。

 当時の映像を見直してみると、フランク・デ・ブールが、ハーフウェイラインの手前、センターサークル付近から放ったロングパスの距離は、およそ50mはあるだろう。そのパスの正確性もあまりに見事だが、何よりベルカンプは、それだけ後方から来たボールを、右足の甲で軽やかにピッチに落とす。私の頭の中は真っ白になった。

マルセイユの死闘に終止符が打たれた

 さらにベルカンプは、まるで名闘牛士のように切り返して、ひらりとDFロベルト・アジャラをかわす。そして目の前で小さくバウンドしたボールを、これまた右足のアウトサイドでゴールの左上隅に突き刺してフィニッシュだ。あまりに優雅な一連の「動作」に、敵のGKカルロス・ロアも為す術はなかった。

 76分にニューマンが2枚目のイエロー・カードを貰って退場し、苦しくなっていたオランダだったが、88分のオルテガの退場で流れを一挙に引き戻す。ディエゴ・マラドーナの後継者とも謳われた10番は、ダイブでイエローを貰うと、近寄って何かを言ってきたファン・デル・サールに頭突きを見舞う。

 続け様に2枚のイエローで、レッド・カードを提示され、“マラドーナ2世”はチームを救うことなく、灼熱のピッチを後にした。それから程なくして、フランク・デ・ブールが芸術的なロングパスを放った。

 こうしてオランダ代表は2-1でマルセイユの死闘に終止符を打った。私の頭の中には、ベルカンプを始めとして、クライファート、コクー、ダーヴィッツ、スタム、デ・ブール兄弟といったオレンジ軍団の名前が刻まれた。そして準決勝で待ち受けるのは、“闘将”ドゥンガがキャプテンマークを巻き、ロベルト・カルロス、リバウド、ロナウドらを擁する“王国”ブラジル代表である。

(文・本田千尋)

【了】

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