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ジダンと日本サッカーの関わり。そのとき日本はまだ『世界の外』にいた【ジダン研究前編】

シリーズ:フットボール批評オンライン text by 石沢鉄平 photo by Getty Images

「彼の素質はジダンの10分の1程度」



――ジダンはその後、憧れだったOMではなくボルドーに移籍します。当時のOM、特に会長のベルナール・タピは、OMの八百長事件を持ち出すまでもなく、近代サッカー史的に避けては通れない人物です。

「Netflixの『タピ~千の人生を送った男~』を観て気絶しそうになりました(笑)。もう思ったとおりにいい加減。とにかく思いつきの人で、それがまたことごとく当たってしまう。典型的な山師。『ルモンド』紙では『観る価値があるのか』という議論をしていました。スマイル(ジダンの父親)はタピに対して批判的な姿勢でしたが、ジダンはタピのことは嫌いではなかったように思います」

――ボルドーではフランス代表でもチームメイトとなるFWクリストフ・デュガリーとDFビセンテ・リザラズと「ボルドー・トライアングル」を結成します。特にジダンとデュガリーの相思相愛ぶりは本書を通じて初めて知りました。

「馬が合ったのでしょう。レストランを共同経営し、共著も出しているくらいです。ただ、ジダンにとって決してプレーしやすいFWではなかったはず。とにかくジダンはリーグ・アン、代表では相性のいいFWに恵まれなかった。ティエリ・アンリがその典型で、内弁慶のステファヌ・ギバルシュもそうでした。とはいえ、仲間に恵まれたボルドー時代のジダンは幸せだったのではないでしょうか」

――そして、1994年8月にジダンはフランス代表デビューを果たします。当時のフランスは94年ワールドカップの出場権を逃し、監督はジェラール・ウリエからエメ・ジャケに交代していました。陣野さんは当時のフランスをどのように見ていましたか。

「ジャケはチームの中心だったエリック・カントナを切ることを決めていました。ワールドカップを逃したチームは規律がなく、規律が求められつつあった当時のサッカーとは逆行していたように感じます。ダビド・ジノラ、ジャン=ピエール・パパンも代表ではさしたる痕跡を残していない」

「ただ、ジダンが出場したEURO1996も中盤に人材はいても、FWがいない状況。メディアに『ジダンの友人枠としてデュガリーは選ばれている』と皮肉られているくらいでした。また、ジダンと同じポジションにユーリ・ジョルカエフがいましたが、ジダニストからすれば彼の素質はジダンの10分の1程度だと思っていました(笑)」

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