YouTubeチャンネル『カカロニフットボール』とウェブメディアの『フットボールチャンネル』のコラボ企画「Jリーガー異色キャリア図鑑」。今回は中学時代からJFAアカデミーで寮生活を送り、筑波大学を経て、清水エスパルスに加入、現在は川崎フロンターレで活躍する山原怜音選手のキャリアを深掘りしてきました。[1/2ページ]
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【山原怜音プロフィール】
1999年生まれ、京都府出身。中学入学と同時に親元を離れ、JFAアカデミーで年間を過ごす。筑波大学ではユニバーシアード、年代別の日本代表でもプレーし、4年次には特別指定選手として清水エスパルスでJリーグデビュー。翌年の正式加入から4年間在籍し、今季から川崎フロンターレでプレーする。
両足のキックの精度の高さのルーツは小学生!?
関西人らしい砕けたトーク力、そして知性と気遣いが溢れる人柄で、たくさんの面白い話が聞けたため、こちらのコラムではプロ入りまでのお話を一部抜粋しながら紹介しようかと思います。
中学からJFAアカデミーなのであまりイメージはないのですが、京都府出身の山原怜音選手。
始まりは「3歳か4歳……?」。歳の離れた2人の兄の練習についていく形で、サッカーと出会いました。
お兄さんの練習中に「あんたもボール蹴っとき?」と両親に言われ、面倒見がいい“違う子のお父さん”が相手をしてくれたのがサッカー人生の始まりだと語ります。
「今考えたら息子の試合を見たいはずなのに、めちゃくちゃ失礼なことしてますよね!」
と本人は感じているようですが、きっとそのお父さんは今、「山原怜音の原点は俺なんだ」と、誇らしいことでしょう。
おーい! 鳳凰サッカースポーツ少年団に子供を通わせてたお父さん、読んでる〜??
さて、自然な形で鳳凰サッカースポーツ少年団に入団することになる山原少年ですが、人数が少なく「並行して通っていたサッカースクールの同級生と仲良くなり、サッカーのレベル感も合ったため、彼らが所属している、京都紫光サッカークラブに移籍しました」。
少年サッカーに詳しい人ならご存知かと思いますが、当時、府内一の強豪です。
そこで10番を背負い、エースストライカーとして活躍した山原選手。ていうか、このコラムで話聞く選手、全員小学校の時エースストライカーだな。
さて。そんな中でも現在のプレースタイルに繋がるルーツの話が。
「右足を捻挫してしまって、でも休みたくなくて。左足一本でやってたら蹴れるようになった」
と、左右遜色なく使える原点はここにあったそうです。
当時からナショナルトレセンに選出され、チームとしても、6年次には4つある府大会のうち3つを制するのですが、そんな山原選手の叶わなかった目標が、京都サンガU-15に入ること。
「周りの子達にJクラブのアカデミーから声がかかる中、なかなか声がかからず、選択肢の一つとしてJFAアカデミーを受験しました。」
当時、背も高い方だったということで、本当に理由はわかりませんが、最後までオファーは来ず。
ただ、一方で「中学でナショナルトレセンに入った時に、サンガのスカウトをされてた方と会って『なんでサンガに来んかったんや』と軽く言われて。『いやいや言ってくれませんでしたやん!!』と。(笑)
本人曰く、一番輝いたのは卒業を間近に控えた年度末のサンガカップ。アピールが遅すぎたのか、巡り合わせの妙でJFAアカデミーに入団しました。
「最初は泣いてましたね」
「6年間寮生活で、サッカーと勉強の日々でした」
サッカー漬けというよりは、世界に通用する人材を育成する組織だというJFAアカデミー。
毎日1時間は勉強部屋で勉強もして、洗濯など身の回りの仕事も自分でやる。6学年が共同生活する中で、『先輩はさん付け』するなど礼儀も学びます。
これを13歳にして、プロになるために必要なこととしてやっていた山原選手。
しかし――
「最初は泣いてましたね」
やはり中学生には過酷な環境です。
ただ、サッカーにおいては、中1、中2、中3、高校トップ、高校チャレンジ、と5つのカテゴリーに分かれ、その全てを何人ものS級ライセンス所持者のコーチが指導するという、恵まれた環境だったそうです。
基本的な指導方針は「ボールを大切に、人とボールが絡んで。という感じですかね。高校に入ると、より勝ちにこだわる、とか、縦に早く、みたいな戦術も入ってきました」。
これは僕の主観ですが、まさにJFA直結の教えという感じがします。
その中で山原選手は常にキャプテン。さらにU-15の代表に選ばれるなど中心としてプレーしていたそうです。
ここまで喋っていて、めっちゃキャプテンっぽいなと思ってたので驚きはゼロですね。
ただ、当時のポジションはFWではなく、ボランチ。
「アカデミーの指導者の方に、君はボランチだ。と見出されたんですか!?」と、尋ねると「いや、アカデミー=パスサッカーって脳で入ったので、自己申告で最初からボランチでした」と、驚きの返答が。
そこで世代別代表にも選ばれるんですから、直感力があったのでしょう。
ちなみにカカロニフットボールでは、節目ごとに、衝撃を受けた相手を聞くのが通例なので、当時衝撃を受けた選手を挙げてもらいました。
「『来いよ来いよ』と言われてこそないけど、そう言われてると感じるくらい、奪いにいってもボールとれないわ、何しても余裕で剥がされるわ……」
という、1学年年下で当時名古屋グランパスU-18の菅原由勢選手(現ブレーメン)
そして、チームとしては、滝裕太選手(現沼津)らを擁したエスパルスユースを挙げ、「チームで戦術が浸透してるというよりも、各々がゴールを目指して、めちゃくちゃ強かった。なのにそんなコンビネーションもできるんかい」と、日本のブラジルと呼ばれた静岡という風土を感じたそうです。
あと、突然振ったのに話がスッと入ってくる山原選手の言語化能力もすごいです。
高3次にはJチームの練習に継続して参加した時期もあるほどの選手に成長していたものの、正式なオファーを受けるには至らず筑波大学に進学します。
「筑波大にいかなければプロになれてない」
と語る4年間が始まります。
プロ入りへの転機「変化することに強いプライドがない」
「筑波大学では、いつの時期から出番を掴んだのでしょうか?」
最初の質問として、山原選手にぶつけてみると……。
「最初は、1年の開幕戦」
!!?
凄すぎる! まして、山原選手は高3次に、天皇杯で筑波大がベガルタ仙台を破る試合をテレビで見てたといいます。
かの有名な、三笘薫選手(当時2年)が70mドリブルで独走してゴールを決めたあの試合です。
「すげぇなっていう……。ビビり散らかしました……」
という第一印象だった中、その春には一緒に公式戦でプレーしているのです。
というのも、サイドバックがいないチーム事情もあり、小井土正亮監督から「今年一年サイドバックでやってみてほしい」と、打診されたそう。サッカー人生の転機は入学早々に訪れていました。
「僕、自分の良かったなと思うところなんですけど、試合に出れるなら、プロになれるなら、自分を変化させていくことに対して、強いプライドがなかったんですよね」
そう語るメンタリティもあって、その年の終わりには、1年生ながら全日本大学選抜に選ばれました。
「自分はサイドバックなんだ!」
そこで生きていくことを決意し、その時期にエスパルスのスカウトをされていた兵働昭弘さんからも「注目しているよ」と、声をかけていただいたそうです。



