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サッカー海外組第1号はなんとあの有名歌手の弟

text by 植田路生 photo by editorial staff

香港リーグでレギュラー記録だけに留まらぬ活躍

 Jリーグ創設が目の前に迫ったある日、佐田は川淵三郎と食事をする機会があった。そこで香港リーグでプレーしていたことを告げると川淵は、「え?! ちょっと待ってよ。それって日本初じゃない」とえらく驚いたという。

 佐田はそれまで自分が“日本初”であることを意識していなかった。つまり、佐田が“プロ第1号”であることを初めて認識した人物は川淵ということになる。だが、佐田は自分が初物であることについて、

「おこがましいよね。日本初と言えば奥寺さんだと思う人が多いじゃないですか。あっちはブンデスリーガ、自分は香港リーグ。何だか申し訳ない気になるよ(笑)」

 と謙遜する。もちろんリーグのレベルは違うが、話を聞いていくと、佐田が偶然プロになったワケではないことがわかる。

 香港リーグは1908年創設とアジア最古のプロリーグ。当時は今よりもずっとハイレベルで、1・2・3部それぞれに18のクラブがあった。佐田の契約した東方は1部に所属し、6~7位を行き来していたという。中堅クラスであろうか。

 加入時、地元の新聞には『救援日本軍』と書かれて大体的に報じられた。「戦時中じゃないんだから(笑)」と佐田は思ったが、助っ人として大きく期待されていたようだ。

 それは、佐田とクラブとの契約にも表れている。「大学に戻ることも考えていたから給料は断っていた。だから『お小遣い』としてオーナーが払ってくれたんです」と言うが、その額は小遣いの枠を超えている。月給で約10~15万円。

 日本の大卒初任給が約7万円だった時代だ。その他に勝利給がプラスされる。試合に勝利し、かつ得点を決めると200万円ほどの特別ボーナスが支払われたこともあったという。

 佐田は契約に見合った活躍を見せる。9月中旬という途中加入にもかかわらず、合計で15試合程度に出場。得点も決めた。

「最初の得点はよく覚えていますよ。僕には珍しく頭で2点決めたんです。しかもデビュー戦。最初に結果を出したのは大きかったね。あの2点があったからその後も使ってもらえましたから。右足でも決めたね。左サイドでもらって切り返してのシュート。あとは
…もっと決めてるとは思うけど、40年前のことだからね、覚えてないなぁ」

 3点目は得意のカットインからだった。佐田のゴール数を“2得点”とする情報もあるが、“3点以上”というのが正確な数字のようだ。

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