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なぜ日本人選手は海外へ出ていくのか――日本の若者がリスクをとらない理由

text by 橘玲 photo by Kazhito Yamada / Kaz Photography , Getty Images

グローバルなサッカー、ローカルな野球

 日本のサッカー選手が海外に容易に挑戦できるもうひとつの理由は、Jリーグ創設を機に、日本サッカー自体がグローバル化を目指したからだ。

 かつてロバート・ホワイティングは『菊とバット』など著書で、アメリカのメジャーリーグと日本のプロ野球はまったく別のスポーツだと書いた。プロ野球はベースボールを日本化(Japanization)したもので、日本に出稼ぎに来たアメリカ人選手は一様に野球文化の違い(カルチャーギャップ)に衝撃を受けた。プロ野球において外国人選手がチームの一員でないことは、彼らが「助っ人」と呼ばれることからも明らかだ。

 1934年に大日本東京野球倶楽部(現讀賣巨人軍)を創設し「プロ野球の父」と呼ばれた正力松太郎は、読売新聞社主としてメディア界に君臨するとともに、稀代の興行師でもあった。正力にとってプロ野球はあくまでも日本人のための娯楽でなければならず、アメリカのベースボールをスタンダードにするつもりなどまったくなかった(佐野眞一『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』)。

 それに対してJリーグは、当初こそ前期と後期の2シーズン制や、延長戦で先に点を取ったほうが勝つゴールデンゴール方式など、さまざまな“日本仕様”のローカルルールを導入したが、短期間でヨーロッパリーグなどと同じグローバルスタンダード(1シーズン制、延長戦なしの勝ち点方式)に統一された。ワールドカップ招致を悲願とする日本サッカー協会にとって、日本のサッカーを「世界と同じ」にすることが喫緊の課題だったからだ。

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中田がイタリアに渡ったのはJ開幕から5年後のこと【写真:Getty Images】

 それと同時に、Jリーグの各チームも積極的にグローバルなサッカー文化を吸収しようとした。1993年の開幕からジーコ、リトバルスキー、リネカーらの大物外国人選手がチームの中心となり、ハンス・オフトやアーセン・ベンゲルなどの外国人指導者が創成期に指揮をとった。中田英寿がセリエAに渡ったのは、リーグ開幕からわずか5年後だ。

 プロ野球の前身である日本職業野球連盟が創設されたのは戦前の1936年で、日系2世のウォーリー与那原や短期間で更迭された2人のアメリカ人監督を除けば、はじめてプロ野球で成功を収めた外国人監督は日本ハムのトレイ・ヒルマンで、監督就任はリーグ創設から67年後の2003年だ。日本人選手がメジャーリーグで活躍したのは野茂英雄が最初で、リーグ創設から60年後の1995年だった。

 NOMOという“イノベーション”以前は、王や長嶋をはじめとするプロ野球のスターたちはみんな「内向き」で、日本という島のなかで一番を目指した。ボールやストライクゾーンの違いもあっただろうが、いちばんの理由は彼らのなかに「世界で勝負する」という発想がなかったからだろう。サッカーにはワールドカップという世界の舞台が用意されているが、ワールド・ベースボール・クラシックが始まったのは2006年なのだ。

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