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ハレ舞台としての選手権。リーグ戦文化が育った現代だからこそ持つ意味とは?

text by 大島和人 photo by Kawabata Akihiko

“リーグ”と“選手権”の二重構造で

“ハレとケ”という言葉がある。前者は文字通り晴れの場であり、後者は日常を意味する。どちらが楽しいかと言ったら、それは当然“ハレ”だろう。しかしいい日常がなければ“ハレ“も貧しいモノになる。

 選手権は今も昔も変わらぬ「晴れ(ハレ)舞台」だが、この十数年で大きく変わったのが日本サッカーの日常である。本田裕一郎・習志野高監督、布啓一郎・市立船橋高監督(ともに当時)らが主導して1990年代後半に立ち上がった「私設リーグ」である関東スーパーリーグは、それに先鞭を付ける試みだった。

 1試合で終わりかねないトーナメント戦と違い、リーグ戦はどのチームも実戦経験を平等に積める。ほどよい頻度で試合ができるから、選手に過剰な負荷がかからず、修正の時間も取れる。一度の失敗ですべてが無になるトーナメント戦より、ある程度は思い切ったことができる。リーグ戦にはそういったメリットがあるとされていた。

 関東スーパーリーグは2002年に関東U-18サッカーリーグとしてクラブチームも混ぜる形で公式戦化され、翌03年から、より発展的な解消を遂げる。JFAがこの試みを公認し、全国に拡げたからだ。さらに2011年からはプリンスの上に“プレミア”というカテゴリーが設置され、日本を東西に分けたU-18年代のトップリーグが誕生した。以前は夏休み前に終えられていたリーグ戦も通年化され、ホーム&アウェイで年間18試合行われることが一つの標準になっている。

 しかしこの試みが浸透し“序列”が整理されと、リーグ戦も実力接近による“戦国時代”に突入した。その帰結としてどうなったか――。

 2014年度のプリンスリーグ関東は、プレミア参入戦に進出できる3位・前橋育英高と、県リーグ降格の瀬戸際である8位・浦和レッズユースまで、6チームが勝ち点『4』の差に密集していた。18試合を戦って、これだけしか差が付かないのだ。となれば、リーグ戦はリーグ戦で1試合も疎かにできない。必然的に、リーグ戦こそが冒険できない、負けられない戦いになってきているのではないか。

 もちろんぎりぎりの戦いは、選手をたくましくする。1点の重みを知り、用心深くなった選手たちが、この国にリーグ戦文化を根付かせてくれるだろう。その価値を軽んじるつもりは一切ない。

 しかし選手も客もパーッと弾ける“ハレ”の場は、エンターテインメントとして面白い。報道が増えるから盛り上がるのか、盛り上がるから報道が多いのか、“鶏と卵”の議論はこの際置いておこう。とはいえテレビや新聞が盛んに扱い、スタジアムも少なからぬお客が埋めてくれることで生まれる“熱気”が、良くも悪くも選手を煽る。

 日常が重苦しいからこそ、お祭りで弾ける。この国には古よりそういう二面性が根付いていた。選手権に臨む選手たちは、よくも悪くもどこか浮かれている。だから試合を見ると、あり得ないミスが起こるし、逆にいつもなら有り得ないスーパープレーも飛び出る。そういう不確定要素こそが、選手権の面白さと言っていい。選手権のプレッシャーが小さいとは言わないが、負けてもゼロになるだけだ。マイナスにはならない。負けても“降格“はない。言葉は悪いかもしれないが、選手権にはハイリスク&ハイリターンのギャンブル性がある。日常のリーグ戦が重苦しくなったからこそ、選手たちは最後の大舞台で弾けるし、その結果として番狂わせも起こる。

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