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Jリーグ 8年前

曹監督だけでなく――。J1残留後、眞壁会長のほおを伝った熱い涙。クラブ存亡をかけた湘南15年の軌跡

3度目の挑戦で悲願のJ1残留を勝ち取った湘南ベルマーレ。クラブのアニバーサリーとして刻まれた10月17日のFC東京戦に涙を流したのは、現場を預かる曹貴裁監督だけではなかった。責任企業をもたない市民クラブとなった2000年シーズンから、ベルマーレの経営を担ってきた眞壁潔代表取締役会長もまた目頭を熱くさせていた。ほおを伝った涙には、クラブの存亡をかけてアイデンティティーを追い求めてきた軌跡が凝縮されていた。(文中一部敬称略)

text by 藤江直人 photo by Getty Images

反町康治監督が築いたチームの土台

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反町康治監督(現松本山雅FC監督)【写真:Getty Images】

 湘南ベルマーレのアイデンティティーを長期的な視野で俯瞰すれば、2012年シーズンを境に「ある変化」が生じていることがわかる。曹貴裁監督がコーチから昇格する形で就任し、指導体制が一変されたことだけが理由ではない。

現在は会長を務める眞壁潔社長から、こんな言葉を聞いたことがある。

「反町はベルマーレ平塚のOBとして助けにきてくれたと思っている。今年からはベルマーレ平塚時代からの財産ではなく、本当の意味で湘南ベルマーレとして作ってきた財産で勝負をする年にしたかった」

 2009年から指揮を執り、そのシーズンにJ1昇格を勝ち取った反町康治監督(現松本山雅FC監督)は、ベルマーレ平塚で1997年に現役としてのキャリアを終えた。

 アルビレックス新潟監督、北京五輪に挑んだU‐23日本代表監督を経て率いた湘南ベルマーレには、GK野澤洋輔、MF寺川能人といったかつての教え子たちが集結。11年ぶりにJ1の舞台へ返り咲いた。

 ハードワークを徹底させる妥協のない指導で、いま現在に至る土台を築いてくれた功績には心から感謝している。一方で湘南ベルマーレとして歩んできた歴史を振り返ると、明確な足跡を刻む必要があった。

 ベルマーレ平塚から湘南ベルマーレへと、チーム名があらためられたのは2000年シーズン。責任企業だったフジタが、経営再建のために撤退してから約1年の歳月が過ぎていた。

 ホームタウンを平塚市から、平塚市を含めた7市3町へ変更・広域化した。責任企業をもたない市民クラブは、当然のことながらそのシーズンを戦う予算を組み立てるのにも困難に直面した。

「高校生だけ残して、中学生以下の世代は一度なくそう。経営が安定したときに、もう一度作ればいい」

 経営陣のなかで出された提案に対して、真っ向から異を唱えたのが常務として経営に参画したばかりの眞壁氏だった。

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