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麻薬王と悲劇のDF。南米王者アトレティコ・ナシオナルと絡み合う2人のエスコバル

text by 北澤豊雄 photo by Toyoo Kitazawa , Getty Images

急増するコカイン製造量。暴力と麻薬が支配する異様な状態に

コロンビア第2の都市メデジンの様子。2011年9月撮影【写真:北澤豊雄】
コロンビア第2の都市メデジンの様子。2011年9月撮影【写真:北澤豊雄】

 1回目のリーグ優勝のあとは低迷期に入るが、そこから浮上してきたのは1970年以降だった。おりしもコロンビアはコカインブームに沸いていた。コロンビアのコカイン生産量は1975年の53トンから1980年は135トンと急増し、以降、年を追うごとに伸びてゆく。そんな時期にコロンビアのみならず南北アメリカ大陸の麻薬市場を牛耳った男が、メデジン出身の世界の麻薬王、パブロ・エスコバルだった。

 1970年後半からメデジンを中心にコカイン密輸に手を染めて体系的な組織を作り上げる。1989年にはアメリカの「フォーブス」誌上で世界7位の資産家と位置づけられ、自家用ヘリコプターや飛行場を所有し、動物園をこしらえ、メデジンの貧困街に病院や学校も作った。

 年間で10億ドルとも20億ドルとも言われるダーティーマネーを稼ぎ出していた。そんな彼の生き甲斐のひとつがサッカーだった。アトレティコ・ナシオナルが彼の毒牙にかかるのは、時間の問題だった。

 ちょうどその頃、アトレティコ・ナシオナルは黄金期を迎えていた。73年、76年、81年にリーグ制覇をしたものの、時のクラブ会長エルナン・ボテロが85年に麻薬資金の洗浄で逮捕されてしまう。

 このとき52歳のボテロは、以降10年以上を刑務所の中で過ごしているのだが、出所後も無実を主張し続けて今年の6月に鬼籍に入っている。この時期はサッカークラブと麻薬マフィアの関係が顕在化していた。国内の治安もすこぶる悪くなっていた。

 コロンビアの年間殺人件数は1984年の10,745件から89年は23,384と倍増。89年はエスコバルを筆頭とした麻薬マフィアと政府の内戦状態がもっとも激化した時期で、警察長官、法相、県知事、判事、司法最高責任者などが殺害または誘拐され、国内線の航空機さえも爆破されてしまう。麻薬マネーが国内を席巻し、テロリズムが恒常化していた。

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