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ボスマン判決の功罪。移動の自由獲得と自国選手の減少。サッカー界に侵入した過激なほどの自由主義【特集:ボスマン判決、20年後の風景】

シリーズ:ボスマン判決、20年後の風景 text by マリオ・オルナト photo by Gabriela Hengeveld,Archivo,Getty Images

「なあ、こいつは欧州の法に関係するものなのか?」

 ボスマンはスタンダール・リエージュのトップチームで、鳴かず飛ばずのまま5年にわたってプレーし、その後にロイヤル・フットボールクラブ・リエージュ(RFCリエージュ)に移籍。そこでは1990年夏の契約切れを間近にして、ベルギーカップ優勝を果たしている。

 しかしRFCリエージュはボスマンの成果に満足できず、契約更改で提示した額は彼がこれまで受け取っていた月給600ユーロ(ベルギーリーグの最低賃金)を、さらに4分の1まで減らすものだった。ボスマンがそれを撥ね付けると、クラブは放出を宣言。しかし当時の選手たちは保有権に縛り付けられており、クラブは契約切れの選手にも移籍金を要求することが可能だった。そのためにRFCリエージュは、ボスマンの値打ちを1200万フランと見積もった。

 ボスマンはダンケルクと意思を通わせたものの、このフランス2部リーグのクラブに支払う用意があったのは、せいぜい400万フランというところだった。これに対してRFCリエージュは彼らに即金での支払いを要求し、また意図的に書類手続きを遅らせるなどした。そうして移籍は破談に終わり、ボスマンは狐につままれたような気持ちに陥った。

 彼の頭に隣人の姿が浮かんだのは、まさにその瞬間である。恋人から何度か紹介されたことがある、法学部を卒業したばかりのオーソドックスな丸い鼻眼鏡をかけた若者。その名をジャン・ルイ・デュポンと言った。弁護士の経験などまだそこそこの、欧州委員会の仕事に就く男だった。ボスマンは極めて自然に、まるで階段の踊り場で、誰か配管工を知らないかと尋ねるように相談を持ちかけた。「なあ、こいつは欧州の法に関係するものなのか?」

 EU法第39条にある、EU域内での労働者の自由移動及び労働に従事する権利、その目的によって該当国に居住できる権利。デュポンとボスマンは以上のことを訴えの基盤とした。ボスマンはその間、小さなクラブ(オリンピック・サン・カンタン、サン・デニス、シャルルロワ)を渡り歩くことで空疎なキャリアを築いていったが、裁判はそれとは正反対に途方もないスケールを獲得するまで長引いた。デュポンは後に、こう述懐している。

「着手したときには、たいそうなものに立ち向かっているわけではないと考えていたよ。けれども権威機関は我々のことを真剣に取り扱おうとしなかった。それもあって、制限を課されている国外の選手数を付け加えたんだ。EU域内における自由移動の権利に反していたのは、明らかだったからね」

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