横浜F、“最後”の天皇杯制覇の舞台裏。「伝説」につながる一言を発した若手FW【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

2017年02月14日(Tue)10時39分配信

シリーズ:フリューゲルスの悲劇:20年目の真実
text by 宇都宮徹壱 photo Tetsuichi Utsunomiya, Getty Images
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トップでの出場機会は得られず、サテライトで過ごす日々

98年シーズンに横浜フリューゲルスの監督を務めたレシャック。メッシを見出した人物としても知られる
98年シーズンに横浜フリューゲルスの監督を務めたレシャック。メッシを見出した人物としても知られる【写真:Getty Images】

 そしたら1年目(96年)の夏、いきなり「アルゼンチンに行ってこい」と言われて(笑)。もともとクラブとは「オフシーズンにブラジルに3ヶ月行かせてもらう」という条件だったんですが、なぜかそれがアルゼンチンになって、(クラブ・デ・ヒムナシア・イ・エスグリマ・)ラ・プラタのU-20で1年間プレーしました。

 試合に出られるまで、3ヶ月くらいかかりましたかねえ。いろいろ悔しい思いもしましたけど、精神的なタフさは身につきましたよ。最後のほうは「日本に帰りたくない」と思えるくらい、馴染んでいました(笑)。

(帰国して)チームに合流したのは、97年の8月でした。自信を胸に秘めて戻ってきたんですけど、トップチームでの出番はなかったですね。当時はまだサテライトリーグがあって、そこでプレーすることが多かったんですけど、結果を出しても引き上げられることはなかった。なぜトップで使われないのか、理由がわからなかったのでイライラすることもありましたね。

 次のシーズン(98年)、監督がオタシリオからレシャックに代わってから、状況も少し変化しました。シーズン前のキャンプは、スペインのセビージャだったんですけど、3-4-3のシステムで僕は3トップの真ん中で使われることが多かった。

 当時、アツさん(三浦淳宏)に可愛がってもらっていて、試合に出られないときはずっと「腐るな」って言われていたんですけど、「今年はお前、行けるな」って話をしていたんですよね。でも、その年のリーグ戦は1試合しか出番はありませんでした。

 それでもレシャックのサッカーは、僕は好きでしたね。(以前、指導していた)バルサと同じで、ワンタッチ、ツータッチでボールをつないでいく。リスクはあったけれど、はまれば楽しい。しかも僕は、基本的に余計な動きをしなくて、ポストプレーに徹しながらバイタルでは好きなようにやればいい。これは楽だなと(笑)。

 ただし、バルサのサッカーは当時の日本人には難しすぎたと思います。それに当時のJのクラブは、3-5-2とか4-4-2とか。2トップが主流でしたしね。

(98年のシーズン途中で解任されたが)レシャックは何かを残したと思いますよ。新人のヤット(遠藤保仁)を抜擢したのは、今にして思うと「さすが」と思いますね。

 まだ18でしたから、線も細かったですし、当たりも弱いし、足も遅い。ただし彼は、1タッチ2タッチでボールをさばけるんですよね。だから決して怒られることはなかった。僕も上手いなあと思っていましたけど、その後日本代表になって、あそこまでキャップ数を伸ばすとは想像できなかったです。僕は同郷の小野伸二のほうがすごいと思っていたんですが。

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