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Jリーグ 7年前

横浜F最後の指揮官、エンゲルスの回想「『合併』の意味を当時の僕は知らなかった』【フリューゲルスの悲劇:20年目の真実】

シリーズ:フリューゲルスの悲劇:20年目の真実 text by 宇都宮徹壱 photo by Tetsuichi Utsunomiya, Getty Images

日本語を一番学ぶことができたのはピッチ上

インタビューにはすべて日本語で応じてくれたエンゲルス氏
インタビューにはすべて日本語で応じてくれたエンゲルス氏【写真:宇都宮徹壱】

 あの当時(80年代の終わり)、日本はとても遠い国だったし、僕自身も日本に関する情報はほとんど持っていなかった。それでも興味を抱いたのは、ドイツとの距離感が大きかったと思う。

 フランスとかベルギーとかオランダとか、ヨーロッパでの仕事はいつでもできる。でも日本は、文化も歴史も習慣も、ヨーロッパとはまったく違う国。そこでサッカーの仕事をすることに魅力を感じた。僕の日本でのチャレンジは、そこから始まったね。

 初めて日本に来たのは90年、もうすぐ33歳というタイミングだったね。僕はアセノスポーツクラブというところでプレーをしながら、時々子供たちを教えるという仕事に就くことになった。

 アセノは、のちにプリマ(FC土浦)になって、さらに水戸ホーリーホックになるんだけど、当時は僕も茨城県に住んでいた。本当に田舎でね(笑)、最も近い都会は柏だった。土だか芝だかわからないグラウンドでプレーしていたけど、子供たちを教えるのは楽しかったね。

 日本語の勉強は、すぐに始めた。当時、アセノの選手と共同生活をしていたから、覚えるのは早かったと思う。ただ、僕が日本語を一番学ぶことができたのは、やっぱりピッチ上でのコミュニケーションだったね。

 右、左、速く、遅く、とか。たとえば「クサビ」なんて言葉、日本語学校に5年間通っても、絶対に知らなかったと思う(笑)。プレーや指導の現場で、覚えたての日本語を積極的に使っていく間に、かなり話せるようになったね。

 次の年(91年)、僕は滝川第二高校で「特別コーチ」として指導することになった。きっかけが面白くてね、デューレンで近所に住んでいた女性と日本で偶然再会したんだけど、彼女のご主人がケルン体育大学で学んだこともある人だったんだ。

 それが祖母井(秀隆)さんで、仲が良かった滝二の黒田(和夫)先生を紹介してもらった。結果として黒田先生との出会いは、僕のキャリアの中でものすごく重要なものになったね。僕にけっこう任せてくれたし、先生を通して日本サッカーについてたくさんの勉強をさせてもらったし。

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