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高校サッカー育ちのAリーガー。日豪ハーフの20歳、コナー・オトゥールの人生を変えた出会い

text by 植松久隆 photo by Getty Images, Paul Smith Photography, Taka Uematsu

人生最大の転機になったコンバート。代表からも声がかかり…

「とにかく周りの全員が速くて上手くて、初めは全然ついていけなかった」という中で、FWや司令塔のポジションだった1、2年次は、まったく出場機会を得られないままに過ぎていった。そして迎えた3年生の春。ここで、オトゥールに選手生活最大の転機が訪れる。その一大転機をもたらしたのが、成立学園を総監督として率いる宮内聡。日本代表20キャップを数える1980年代の日本サッカー界の名手で、引退後に日本女子代表監督などを務めた後、2000年から成立学園サッカー部を指導している。

 その宮内が、新体制でレギュラーを狙うオトゥールにあるアドバイスを施した。現有戦力を完全に把握する総監督の言葉は「FWとしてのスタメンは難しいから左サイドバックをやらないか」というコンバートの奨めだった。それは、サッカーを始めて以来ずっと攻撃的ポジションだけしかやったことのない本人には簡単に受け入れられるものではなかった。最初は恩師の言葉に「日本のサイドバックは走ってばかりだし、やりたくない」と反発心を覚えたが、最終的には「スタメンで試合に出たい」という気持ちが勝った。

 総監督のアドバイスを受け容れたその瞬間、左サイドバック「オトゥール・コナー」が誕生。そうやって定位置を得たからこそ、攻守に労を厭わず、果敢なオーバーラップで勝負する左サイドバックとして高校サッカー選手権予選で激戦区・東京Bブロックの準決勝まで勝ち上がった強豪の貴重な戦力として貢献できた。

 本人が「あの総監督からの言葉がなければ、今の自分があるかは分からない」と振り返るように、このコンバートこそ、彼を「プロ・フットボーラー」へと導いたのだから、いつまでも宮内総監督に足を向けては眠れまい。

 その転機以来、オトゥールのキャリアは良い方向へと転がっていく。彼の日本でのプレーを編集したビデオが回りまわって、当時、ヤング・サッカルーズ(豪州U-20代表)を率いていたポール・オコン(現セントラルコースト・マリナーズ監督)の目に留まった。そして、ある日、シドニーにいるコナーの父親の携帯に「コナーをヤングサッカルーズの合宿に招集したい」との電話が入る。声の主は、オコンだった。

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