03年、柳沢敦。44試合0ゴール。「レツィオーゾ(キザ)」と呼ばれ、苦しみ抜いた男の真実【セリエA日本人選手の記憶(5)】

2019年05月31日(Fri)10時20分配信

シリーズ:セリエA日本人選手の記憶
text by 神尾光臣 photo Getty Images
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得点が取れない最大の理由

 だがサンプドリアの時代と違ったのは、柳沢にとってサイドは初めてではなかったということだ。そして、ファンにとっては大事な試合で転機が訪れた。10月26日、海の向こうにあるレッジーナとの『海峡ダービー』。途中出場した柳沢は、左サイドで試合を変えた。

 巧みに緩急を切り替えたドリブルや、正確なパスのつなぎで多彩にチャンスを作り、ディ・ナポリの頭へピンポイントのセンタリングを当てて逆転ゴールをおぜん立てした。翌日の地元紙の採点は、軒並み7か7.5。これだけの高評価を得たのは、イタリアでは初めてのことだった。

 以後柳沢には出場機会が増え、スタメンで出場する機会も増すようになってくる。チームも残留を果たし、シーズン後にメッシーナは柳沢の完全移籍を決めた。ボルトロ・ムッティ監督は、サイドアタッカーとして彼を評価したのである。

 指揮官は当時「ヤナにもっとも適しているのは4-3-3の左ウイングだと思う」と言っていた。利き足の右をゴールに向けた逆足のサイドアタッカーというわけだ。

 ただ、柳沢の中には一つの葛藤があった。

「長年体に染み付いたものを、そう簡単には変えられない」

 鹿島や日本代表では2トップの一角として動き、多彩なプレーでチャンスを作ってきた男。サイドも器用にこなしはしていたが、ゴールからは遠い場所でのプレーで結局点は取れないままだった。試合に出続け、長年やってきたプレーゾーンでのポジションを勝ち取りたいという希望があった。

 しかし2005/06シーズンは、厳しいものとなった。プレシーズン中、サイドの競争相手として獲得されたジュセッペ・スクッリと練習中に接触し故障、開幕へ向けた調整が遅れる。

 いざシーズンが始まるとチームも低迷し、柳沢自身の出場機会も激減。13節のインテル戦を最後に出場機会を失い、2006年に入ると新戦力獲得のしわ寄せを食らって招集すら漏れるようになった。ドイツW杯を控え、出場機会のないままではさすがにパフォーマンスを落とす。そして2月28日に契約は解除され、鹿島へと戻っていった。

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