03年、柳沢敦。44試合0ゴール。「レツィオーゾ(キザ)」と呼ばれ、苦しみ抜いた男の真実【セリエA日本人選手の記憶(5)】

2019年05月31日(Fri)10時20分配信

シリーズ:セリエA日本人選手の記憶
text by 神尾光臣 photo Getty Images
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日本とイタリア。サッカー文化の違いが足かせに

 ノーゴールで出場機会も少なくなったという実績には、ゴールから遠いサイドでのプレーを強いられたという理由が大きかった。多彩なプレーができる選手だとはいえ、本職のMF並みに下がって守備をしボールを奪うなどの貢献までは求められない。
しかし組織守備が重視されるイタリアでは、やはりそこまでの貢献も要求される。

「ヤナにはボール奪取の際にも貢献して欲しい」とムッティ監督は言っていた。イタリアに来るのが早ければコンバートにも対応できたのかもしれないが、サイドが本職でない選手にそこまで求められるのは本人にも限界があったのだろう。

 だがその前に、トップとしてポジションを勝ち取ることが出来なかったというのもまた事実だった。相手の守備が厳しく、サポートも少ない中で、わずかなチャンスを点へと結びつける強引さがイタリアのFWには必要とされる。

 サンプでもメッシーナでも、ポジションを争ったのは下部から叩き上げたイタリア人選手たちだった。「頭の中を自由にして、すぐにボールに反応できるようにするのが大事」と、セリエAで活躍したあるFWは言っていた。結局は、そういう部分での評価が影響したというだったのかもしれない。

「練習ではびっくりするほどうまかった」。メッシーナ時代のサルバトーレ・アロニカを始め、同様の証言をしたチームメイトは少なくなかった。その技術がイタリアの実戦で噛み合わなかった理由は、培ってきたサッカー文化の違いにあったのだろう。

 なお、これを横目で見て学んだのか、この半年後別のクラブが思い切り若い日本人選手の獲得に踏み切ることになる。

 多くの選手が海外で一定の成功を遂げるようになった今があるのは、先駆者が苦闘しもがいた前例があるからだ。柳沢も、その礎を築いた一人だった。

 サッカーには真面目で泥臭く取り組む人間である。

「まだまだあがくよ」

 キャリア晩年、仙台でプレーしていた時に顔を見に行くと、サンプドリアからメッシーナに移籍を決めた時と同じようなことを言っていた。そういう男なのだ。

(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

【了】

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