17歳でACミランの10番を背負った天才とスウェーデントリオ【ACミランの黄金期(1)】

ACミランが今季は好調だ。120年以上の歴史を持ち、18度のセリエA優勝と7度の欧州制覇を誇るミランには、隆盛を極めた時代が何度もあった。そこで今回は、ミランの黄金期を時代ごとに紹介する。(文:西部謙司)

2020年12月25日(Fri)11時00分配信

シリーズ:ACミランの黄金期
text by 西部謙司 photo Getty Images
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50年代を彩るスウェーデントリオ

 1899年にミラン・フットボール・アンド・クリケット・クラブとして創立。英国人のアルフレッド・エドワーズとハーバート・キルピンが創設者だ。1908年に外国籍選手の扱いに関する意見の相違から分裂し、インテルナツィオナーレ(インテル)が生まれている。

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 ACミランは外国籍選手との契約に消極的な立場だったのだが、(編注:セリエAがリーグ戦の成績のみで優勝を決める現行ルールになって以降)最初にリーグタイトルを獲った1950/51シーズンは、皮肉なことにスウェーデン選手の活躍が原動力だった。グンナー・グレン、グンナー・ノールダール、ニリス・リードホルムのトリオは「グレ・ノ・リ」と呼ばれた。1948年ロンドン五輪で優勝したスウェーデン代表の中心選手たちだ。

 1949年にミランに加入したノールダールはセリエA通算257試合で210ゴールを記録、5回の得点王も獲得。身長185cmは当時とすれば巨人の部類だろうか。バワフルなストライカーだった。ミランでの210ゴールは長くセリエA記録であり、2012年にフランチェスコ・トッティ(ASローマ)が更新するまでは1つのクラブであげた最高得点だった。スウェーデン代表でも33試合で43ゴールというハイアベレージ、2人の兄弟と一緒にプレーしていたが、ミラン移籍によって代表から外された。当時のスウェーデン代表はプロ選手を選出していなかったからだ。

 グンナー・グレンはヨーテボリのボールリフティング大会に参加した13歳のときから注目されていて、国内リーグで活躍した後にノールダールと同じ1949年にミランへ加入。プレーメーカーとして攻撃をリードした。グレンも代表に選出されなくなっていたが、1958年スウェーデンワールドカップのときに37歳で復帰している。当時はスウェーデンの2部リーグでプレーしていたのだが、開催国として実力不足が懸念されていてグレンを招集した。この大会のオールスターチームにも選出される活躍で準優勝に貢献した。

 リードホルムは3人の中で最も有名だろう。監督としても成功し、のちにミランがゾーンディフェンスを採用したのはリードホルム監督のときだった。優雅で正確なプレースタイルでグレンとともに攻撃をリードした。1958年のワールドカップではキャプテンを務め、決勝で先制点を決めている。36歳は決勝での最年長ゴールだった。

 グレ・ノ・リがミランに初のスクデットをもたらした後、ノールダールとリードホルムは54/55の優勝にも貢献、リードホルムはさらに2回のスクデット(56/57、58/59)を経験している。

初の欧州制覇に導いたリベラとロッコ

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ジャンニ・リベラ【写真:Getty Images】

 1962/63シーズン、ミランはチャンピオンズカップ初優勝を成し遂げる。55/56シーズンに始まって以来、イベリア半島にとどまっていたトロフィーが初めて動いた。それ以前はレアル・マドリードが5連覇、続いてベンフィカが連覇していて、ミランが決勝で対戦したのもベンフィカ。19分間、まだトロフィーは動いていない。エウゼビオのゴールでベンフィカが先制していたからだ。

 しかし、ミランはアルタフィニの2ゴールで逆転勝ち。2ゴールをアシストしたのは「黄金の子供」と呼ばれたジャンニ・リベラだ。60~70年代はミランといえばリベラだった。68/69シーズンにもう一度、チャンピオンズカップを獲っている。

 リベラは地元のアレッサンドリアでデビュー、まだ15歳だった。早熟な選手はフィジカル能力に秀でているケースが多いが、リベラは小柄で華奢、特徴は図抜けたテクニックとインテリジェンスである。サッカー史上でも最高クラスのエレガントな選手といえる。

 デビュー2年目でミランへ移籍。1シーズン、アレッサンドリアに貸し出されてミランへ戻ると背番号10を与えられ、錚々たるスターに混ざってレギュラーポジションを獲得した。

 61/62シーズンにネレオ・ロッコ監督が就任すると、一時期レギュラーポジションを失ったが、やがて復活すると不可欠の存在になっていく。セリエA優勝を果たし、初の欧州王者まで上り詰めた。

 このときのメンバーには後にイタリア代表監督になるジョバンニ・トラパットーニ、チェーザレ・マルディーニ(パオロ・マルディーニの父)がいて、ブラジル代表でのちに読売クラブ(現在の東京ヴェルディ)で特別コーチを務めたジノ・サニがいた。エーストトライカーのジョゼ・アルタフィニも元ブラジル代表、ペレやババとポジションを争ったころはマゾーラと呼ばれていた。

2度目の欧州制覇

 ロッコ監督はミランをいったん離れるが、67/68に戻ってくるとセリエA優勝、チャンピオンズカップ優勝と1回目と同じ流れで頂点に導いている。このときは決勝でヨハン・クライフとピート・カイザーのアヤックスに4-1で快勝。リベラを軸に再編成した攻撃陣が爆発している。

 ロッコ監督のスタイルは、いわゆるカテナッチョだ。リベロを置き、相手のアタッカーをマンマークする。中盤はフリーロールのリベラと、リベラを補佐する「水を運ぶ人」を組ませる。堅固な守備から、リベラ+3トップによるカウンターアタックが強烈だった。

 ミランの象徴だったリベラは1979年までプレーして引退、その間にスクデット3回、チャンピオンズカップ優勝2回、カップウィナーズカップ優勝2回、69年はバロンドール受賞、12年間キャプテンを務めた。フィールドの「紳士」としても知られ、引退後はミランの副会長、欧州議会議員も務めた。

(文:西部謙司)

【了】

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