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Jリーグ 5年前

石川直宏、マリノスからFC東京へ。「甘くはない」日本代表とクラブでの新たな挑戦【石川直宏・伝記 前編】

2002年にFC東京へと期限付き移籍した石川直宏は、原博実監督(当時)の下で出場機会を獲得し、日本代表にも選出。飛躍する中で、大きな決断に迫られていた。FC東京で長年活躍し、2017年に現役を引退した石川直宏氏の伝記『素直 石川直宏』から、一部を抜粋して2回に分けて公開する。今回は前編。(文:馬場康平)

text by 馬場康平 photo by Getty Images

FC東京への移籍で深めた自信

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2003年当時の石川直宏氏【写真:Getty Images】

 2002年の日韓W杯を契機に、アテネ五輪を目指すU-22日本代表にも熱い視線が注がれた。「アテネ経由ドイツ行き」というコピーがサッカーファンの胸を躍らせ、日本サッカーの次代を担う彼らの人気も急速に高まった。それが親善試合の動員を増やし、4万人を集めた試合も少なくなかった。

 その多くの期待を背負い、2003年5月1日からアテネ五輪2004アジア地区2次予選が始まった。ナオもFC東京への期限付き移籍で自信を深め、遠征と合宿を繰り返す中で代表でも出場時間を徐々に増やしていた。

「東京で納得のいくプレーが続いて、代表でも自分らしいプレーができるようになってきた」

 その手応えは形となる。国立霞ケ丘陸上競技場で行われた、ミャンマーとの第1戦にはフル出場して1アシストし、5-0の勝利に貢献。その2日後、味の素スタジアム開催となった、第2戦には途中出場からゴールを挙げ、チームは4-0で勝利した。この結果、日本は最終予選へと進出する最初のチームとなった。ただし、当初は8月30日から10月18日までの日程で行われる予定だったアジア地区最終予選は、SARS(重傷急性呼吸器症候群)の流行によって大幅な延期がすでに決まっていた。開催は、翌年の3月以降へとずれ込むこととなった。

「延期になったからこそ、その間に個人の課題でもあったクロスやフィニッシュの精度をJリーグや普段のトレーニングで磨こうと思っていた」

「おめでとう。A代表に呼ばれたぞ」

 そこに、うれしい知らせが届いた。5月12日に22歳となった翌日、FC東京・強化部長の鈴木からこう伝えられた。

「ナオ、おめでとう。A代表に呼ばれたぞ」

 日本サッカー協会は、東アジアサッカー選手権に臨むA代表の予備登録メンバーを発表。五輪代表チームからはナオと松井大輔、そして大久保嘉人の3人が選出された。

 しかし、同大会も当初5月28日から6月3日の日程で開催される予定だったが、12月開催へと延期。代わりにJヴィレッジでの合宿と、韓国との親善試合が組まれた。

「何なんだ、このレベルの高さは」

 初のA代表は、合宿初日から新鮮な感動であふれていた。紅白戦ではほしいタイミングでパスが届き、寄せの速さ、体の強さに衝撃を覚えた。ただ、ゲームには出場することができず、日韓戦はスタンドからの観戦となった。「甘くはない」。その悔しさが、自らを奮い立たせる糧となった。

「これだけのプレーができれば、A代表にも入っていけるという物差しが自分の中でできたことは大きい。選ばれていなかったら、自分がどのレベルまでいけばA代表に入れるかなんて全然分からなかった。ジーコも最初は可能性に懸けて選んだと言ってくれた。また一つ新たなチャレンジが始まった」

 続くアルゼンチン、パラグアイとの親善試合にも選出されたが、試合出場はかなわなかった。フランスで開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2003のメンバーからは落選。代表に定着するために、縦への突破だけでなく、右サイドからカットインして左足シュートという新たな形にもトライするようになった。クラブ、世代別代表、A代表を掛け持つハードな日々が始まった。

(文:馬場康平)
 
▼石川直宏(いしかわ・なおひろ)
1981年生まれ、神奈川県横須賀市出身。育成組織から横浜F・マリノスに在籍し、2000年にトップチーム昇格、02年4月にFC東京に加入。03年Jリーグ優秀選手賞、フェアプレイ個人賞受賞、09年にはJリーグベストイレブンを受賞。U-23 日本代表としてアテネオリンピックに出場し、日本代表でも6試合に出場。17年に現役を引退し、翌18年よりFC 東京クラブコミュニケーターを務めている。
 

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『素直 石川直宏』

(著・馬場康平)

定価:本体1600円+税
クラブからも、サポーターからも愛された石川直宏のバイオグラフィー。
FC東京のサイドを駆け抜け、得点やアシストを量産した石川直宏のサッカー人生は、常に逆境との戦いだった。
右膝前十字靭帯損傷、腰椎椎間板ヘルニアなど、度重なる大怪我に見舞われ、夢だったワールドカップ出場も叶わなかった。
それでも何度も立ち上がり続けたアタッカーの素顔に迫る。

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【了】

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