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応援タブーの境界線。窮屈な規制がサッカーをつまらなくする!?

text by 海江田哲朗 photo by Kenzaburo Matsuoka

常識からはみ出る部分にサッカーのコクがある

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【写真:松岡健三郎】

 誰かの自由は、別の誰かの不自由となる。つまり、個々人の自由は対立する。ただし、大人の自由には責任が付きものだ。社会規範を逸脱したり、他者の権利を著しく侵害した場合、大人は責任を取り、それ相応の代償を支払わなければならない。

 これまでJリーグは、事件が発生したクラブに危機管理を怠ったとして罰金を課し、クラブは当該サポーターを入場停止にするなどして、対処してきた。

 しかし、時には個人が責任を負える範囲を大きく超えることがある。

 加藤康博の『消えたダービーマッチ ベルファスト・セルティック物語』(コスミック出版)には、サポーターの対立が深まるあまり、引き起こされた最悪の結末が描かれている。

 1948年12月27日、北アイルランド・ベルファスト。リンフィールドFCとベルファスト・セルティックによるダービーマッチの試合後、ピッチに乱入したリンフィールド側の観客がベルファストの選手を襲い、骨折させるなどのケガを負わせた。この結果、ベルファスト・セルティックは消滅し、リーグそのものが活力を失っていった。

 これには日本人の理解が及ばない宗教問題が関係している。

 サイモン・クーパーの『サッカーの敵』(柳下毅一郎訳/白水社)から次の一文を引く。〈ベルファストでは、一緒に働いてるカソリックとプロテスタントは宗教の話はしない。きめゼリフは『何を言いたいのか知らないが、やめとけ』。ここの人に何か訊ねると、たとえば世論調査とかそういったのでも、みな用心して意見を言いたがらない。(後略)〉

 本物のタブーとはこういうものだ。

 暴発したが最後、ひとつのクラブを消滅させ、同時に歴史あるダービーマッチを消し去り、リーグ自体を衰退へと追い込む。

 日本の老若男女が楽しめるスタジアム環境は素晴らしいものだ。一方で、過去の教訓から学び、リスク要素を徹底排除する事なかれ主義の蔓延には一言申し上げたい。本稿の趣旨はその一点である。何事も最高に面白いのはギリギリのところ。世間一般の常識から少しばかりはみ出てしまう部分にサッカーのコクがある。

 私はこれを一旦手元に引き寄せて考えてみたい。サッカーメディアの現状に同じような空気を感じるからだ。

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