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応援タブーの境界線。窮屈な規制がサッカーをつまらなくする!?

text by 海江田哲朗 photo by Kenzaburo Matsuoka

新しい何かを獲得するために必要なこと

 たとえば、監督や選手にインタビューをする。原稿に仕上げる。ゲラ(校正刷り)をクラブに送り、チェックが入る。マネージメント事務所に所属している場合は、そちらの手も入る。本来、報道の原則ではありえない話だが、もはや慣例となっている。こちらの事実誤認があった場合は修正する。だが、ゲラのやり取りはそれに止まらず、直す直さないで揉めることが少なくない。修正に応じられない部分は突っぱねる。関係は冷え込む。近頃、こんなのばかりで気が滅入る。

 取材する側は読者にリアリティーのある肉声を伝えたい。限られた時間で、どう言葉を引き出すかの真剣勝負だ。ところが、相手側は広告か何かと勘違いしている。たとえ言ったことがそっくりそのままだろうが、少しでもマイナスに働く可能性のある言葉は排除しようとしてくる。ツイッターなどのソーシャルメディアが普及してから、この傾向は殊更強くなった。

 とにかく、失点しないことが第一。全然攻めてない。そういった逃げ腰の姿勢は全体ににじみ出ており、どれほど周囲のエネルギーを削いでいるのか気が付いていない。

 翻って、Jリーグのスタジアムについて。主催者が何よりも安全面を最優先するのは当たり前のことだ。それは一部の人を除き、全体の共通認識としてある。その上で、何らかのアクションを起こす人がいて、賛否両論を巻き起こす。実験的試みの芽を手当たり次第に摘んでいったら、確かに平穏は保たれるだろうが、新しい何かを獲得することはない。

 21年目を迎えたJリーグがコアなファンを着実に獲得しつつも、近年の入場者数が頭打ちとなっている一因を私はこのあたりに見つける。

 私のスタジアムの世界観はこうだ。

 そこに集う人間は、いい奴がいれば悪い奴もいる。金持ちも、日々の生活で精一杯の者もいる。人種もさまざまで、五体満足な人間ばかりではない。無論、思いも寄らないような問題に直面する。その際、受け止め方は人ぞれぞれだ。

 そのときに問われるのは善悪の判断だけではない。私たちの倫理観や差別観、それらをひっくるめたサッカー観が鮮やかに照射される。それぞれのスタジアムで長年蓄積されたその集合体が応援のカラーとなり、ひいてはクラブの個性となる。

 私は冒険者を歓迎する。スタジアムに活気を与え、サッカーの味わいを深めてくれる冒険者を。思慮やユーモアの一切ない、ただ他人に痛みだけを与えて、何とも感じない無法者は鏡を見てみるといい。そこには鬼が映っているはずだから。

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