フットボールチャンネル

30年来の盟友が語るハリルホジッチの知られざる素顔

text by 小川由紀子 photo by Yukiko OGAWA , Getty Images

10年間にもわたるハリルホジッチ監督との二人三脚

30年来の盟友が語るハリルホジッチの知られざる素顔
ユーゴスラビア代表時代のハリルホジッチ【写真:Getty Images】

 しかし、その反動で奮起すると、82-83(27得点)シーズンと84-85(28得点)シーズンの2回、リーグ得点王に輝き、ナントのリーグ優勝やフランス杯準優勝といった数々の成功に貢献したのだった。

 その頃はフランス語も話せるようになっていたが、フランスで数年プレーした後に母国へ戻る気でいたハリルホジッチは、あえて仲間たちと馴染むのを避けていたようなところがあったという。

 ナントで5季プレーしたあと、PSGでの1シーズンを経て、当初の計画どおりハリルホジッチはユーゴスラビアに戻った。現役を引退し、コーチライセンスをとる傍ら、ブティックやカフェを経営するなど、ビジネスでも成功を収めていた。

 しかし間もなくユーゴスラビア紛争が勃発。家や財産をすべて失い、命までも狙われたハリルホジッチがふたたびフランスへ舞い戻ることになったのは、運命的な縁だった。

 母国で取得したライセンスがフランスでは通用しなかったため、新たにフランスでコーチライセンスを取り直すと、パリ北部にある当時2部リーグ所属のボーヴェの監督に就任。『コーチ・ヴァイッド』の誕生だった。

 ちょうどその頃バロンケッリも、距離的にもそう遠くないルアーブルでリクルーターとして働いていた。

「彼がナントから去った後も連絡は取り合っていたが、ヴァイッドがボスニアからふたたびフランスに戻ったあと、お互いの距離がぐっと縮まった。よくボーヴェに出かけていって、カフェに座りながら、ボスニアでのこと、初めての監督職について…いろいろなことを語り合ったよ」

 その後、モロッコのカサブランカで成功したことをきっかけにリールに職を得ると、ちょうどルアーブルとの契約が切れていたバロンケッリにハリルホジッチが「一緒にやらないか」と声をかけた。

 そこからその後10年間にも及ぶ、2人の二人三脚が始まった。

「指導者としてのヴァイッドは、とにかく勤勉で熱心。どんなゲームを実現したいかを正確に把握し、そのために何をすべきかもわかっている。そして選手たちがそれをその通りに遂行することを望む。彼の指導方針に『偶然』や『手落ち』はなく、常に細部に至るまできっちりと計画されている。だからこそ、選手たちにも、自分と同様の勤勉さと熱心さを求める」

続きは『フットボール批評issue05』をご覧ください。

批評05

『フットボール批評05』
定価1242円

日本サッカーの破壊と再生 完璧主義者ハリルホジッチの改革

ハリルホジッチ改革の全貌 その男、完璧主義者につき

[INTERVIEWfromarchives]ハリルホジッチ アルジェリア代表での挑戦
「ゼロからチームを作り上げていく。おそらく私は、そういう道を歩んでいく運命なのだろう」

守備のセオリーに反するサムライたち第5回
「日本の快勝」を手放しで称賛してはいけない

日本人監督が欧州で成功するために必要なこと など

詳細はこちらから

「フットボール批評」の定期購読お申し込みはこちら! 今なら1冊無料!
ジュニアサッカーを応援しようオンラインショップ

1 2

KANZENからのお知らせ

scroll top