Jリーグでは主流も、日本代表ではなじみの薄い4-4-2。基礎的なアイデアを持ち込んだオフト【西部の4-4-2戦術アナライズ】

2016年07月20日(水)11時29分配信

シリーズ:西部の4-4-2戦術アナライズ
text by 西部謙司 photo Getty Images
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オフト監督時代に登場した4-4-2

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1992年、日本代表監督に就任したハンス・オフト【写真:Getty Images】

 92年に初の外国人監督としてオフトが就任。ここで初めて4-4-2が登場する。

 ディフェンスラインは堀池巧、柱谷哲二、井原正巳、都並敏史。都並を除けば横山前監督時代の主力である。井原以外の3人は読売クラブ所属。コンビネーションの良い不動の4バックだった。中盤の4人はフラット、ダイヤモンド、ボックスと多彩。ただ、戦術的に多様性を求めたというより固定メンバーによるやり繰りの結果というのが実態だろう。ラモス、森保一、吉田光範の3人は鉄板、残る1人が福田か北澤か。そのため、誰かが出場できない場合はプレーできる4人の特徴に応じて形が変化していた。ラモスは左サイド、トップ下、ボランチと右サイド以外は全部やっている。2トップは三浦、高木琢也、中山雅史、武田のいずれか。カズと高木の組み合わせが主力だった。

 オフト監督は一時的に3-5-2も試していて、最終予選は途中で4-3-3に切り替えているようにフォーメーションにはこだわりがない。オランダ人のオフトが導入したのは戦術の基礎的なアイデアである。コンパクト、トライアングル、スリーライン。在任2年で繰り返していたのはこの3つで、オランダの育成段階で叩き込まれる基本事項だった。もっともオフト自身が「基本ではなくディテール」と言っていたように、試合を構成する要素であってどれが基礎で応用というものではない。構成要素として等価であるという考え方なのだが、当時の日本にはどれも根づいていなかった。

 92~93年といえば、ヨーロッパではACミラン方式の4-4-2が急速に普及していった時期である。それが日本代表に導入されたのは、オフトの後任だったパウロ・ロベルト・ファルカン監督のときだった。しかし、ファルカンはわずか6ヶ月で退任してしまうのだ。

(文:西部謙司)

【了】

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