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Jリーグ 8年前

リオ五輪は「Jリーグの敗戦」と語るチェアマン。育成改革へ。ルヴァン杯に東京五輪代表参戦案も

text by 藤江直人 photo by Getty Images

一見奇抜なアイデアも日本は導入経験が

 出場資格が現状のままならば、東京五輪は1997年1月1日以降に生まれた選手たちがベースになる。そして、来シーズンのYBCルヴァンカップに東京世代、具体的にはU-20(20歳以下)、2018シーズンはU-21(21歳以下)と段階を踏んで選抜チームを参戦させて、J1クラブと真剣勝負を繰り広げる場を設ける。

 奇抜なアイデアに見えて、実は日本サッカー界ではすでに導入されたことがある。前身の日本リーグ時代の1990-91、1991-92シーズン。当時開催されていたコニカカップに、1992年のバルセロナ五輪出場を目指していた日本五輪代表を参戦させて強化を図っている。

 当時の五輪代表は横山謙三総監督のもと、澤登正朗(東海大学)や藤田俊哉(筑波大学)、相馬直樹(早稲田大学)、名波浩(順天堂大学)ら、後にJクラブ入りして日本代表に名前を連ねる大学生が中心だった。

 結果としては両シーズンともグループリーグ最下位だったが、2シーズン目には2勝をあげる健闘も見せている。そのひとつがレッズの前身、三菱自動車工業から延長Vゴールに末にもぎ取ったもので、このシーズン限りで現役を退いた原副理事長は三菱の一員として当時の強化策を目の当たりしている。

 銅メダルを獲得した1968年のメキシコ大会以来、遠ざかったままになっていた五輪の舞台へ復帰するために。当時の日本サッカー界が知恵を振り絞った末に導入されたものだが、大学側の都合でベンチ入りできない選手も数多くいて、交代要員が足りない試合が少なくなかった。

 果たして、バルセロナ五輪出場は6ヶ国で争われた1992年1月のアジア最終予選で5位に沈んだことで幻と消えた。そして、チームの垣根を超えて選抜チームを結成するうえでの課題は、四半世紀以上の歳月が流れたいまもおそらく変わらないだろう。

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