サッカーをどちら側から見るか。一方通行の批判
「ボールを持つ選手はいつだって自由だ」 と、シメオネは言う。だが、こう続けている。
「そしてライバルにボールが渡ったときに、その自由は失われる」
強調されるのは「自由」を、つまりボールを取り戻すことに関してだ。
「ボール奪取のために集団として骨身を削る」
「チームがボールを保持していなければ、選手にとっては責任を背負う時間となり、逆にボールを持てば自由な時間となる。すべての時間で自由を手にすることなど、広場でプレーする以外はあり得ない」
メノッティやヨハン・クライフはボールについて語るが、シメオネやビラルドはボールを持っていない場合について語る。シメオネにとって、ボールがあれば「いつだって自由」なのは自明であり、ことさら話す必要性を感じていないようだ。
メノッティが守備についてあまり語らないのも同じかもしれない。サッカーをどちら側から見て語るかにすぎず、メノッティ派とビラルド派の対立などメディアの創作物といえば確かにそのとおり。ただ興味深いのは、メノッティやクライフが、シメオネやジョゼ・モウリーニョに対して辛辣な言葉を浴びせかけるのに対して、反対側からの批判はほとんどないことである。
シメオネは「構築」と「破壊」の組み合わせを語るが、強調されるのは「破壊」のほうでそれへの情熱も隠さない。構築と破壊の両方を引き受けるMFだったシメオネが、あえて破壊に重きを置いているのは現在の彼の立場ゆえだろう。
「ファンについてまず理解しておかなければならないのは、彼らが唯一求めているのは勝利であるということだ。そのほかのことは、すべて嘘っぱちである」
では、メノッティはどう言っているか。
「豊満かつ芸術的で、崇拝されるものこそが、人々を幸せにできる」
シメオネは現実を、メノッティは理想を語っているようにみえる。シメオネはその点で現実主義者、勝利至上主義だが、「勝ち負けなど重要ではない」とも言うのだ。
「彼ら(ファン)がピッチに立つチームを自分たちそのものと感じていることは確信している。そうだとすれば、勝ち負けなど重要ではない」