合併発表前日に三浦淳宏から電話。実感なかった山口素弘【フリューゲルスの悲劇:20年目の「真実」】

2018年03月22日(Thu)10時20分配信

シリーズ:フリューゲルスの悲劇:20年目の真実
text by 宇都宮徹壱 photo Getty Images,Tetsuichi Utsunomiya
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世界のサッカーの潮流を意識していた加茂監督

 全日空に入ったのは91年の4月。Jリーグが開幕する2年前で、すでにチームは完全プロ化に向けて高卒と大卒を10人くらい入れていました。社員の選手もいましたが、有名なのは反町(康治)さんくらいで、そんなに多くはなかったです。サツ(薩川了洋)は高卒で同期でした。

 新人はみんな選手寮に入ったんですが、実は僕、サツを「寮のおじさん」だと勘違いして挨拶したんですよね。それくらい老けて見えた(笑)。そしたらユニフォームを着てグラウンドにいるから「あ、こいつが清商(清水市立商業高校)の薩川か!」って。それ以来、向こうは年上の僕に「ヤマ」って呼び捨てですよ(苦笑)。

 加茂さんの指導ですか? 厳しかった、というより褒められた記憶がない(苦笑)。もちろん斬新なところがあったり、今まで気づかなかった指摘があったり、というのはありましたよ。でも、ベースにあったのは厳しさでしたね。「お前のとこからボールが前に出なかったら話にならん!」って、何度も怒られました。

 攻撃の起点となるのはもちろん、ボールの奪い方とか、奪ってからシンプルに前に出す方法など。今だったら当たり前な話ですが、当時はかなり新しかったですね。世界のサッカーの潮流みたいなものを、加茂さんは意識していたと思います。アリゴ・サッキ時代のACミランの映像を何度も見せられましたし。

 ただ、最初の頃の僕のポジションは中盤の真ん中ではなく、3−5−2の右サイドでした。センターは外国人(アコスタ)。僕は「真ん中でやりたい」って言ったんですが、加茂さんとしては外国人のほうが任せられると思ったんでしょうね。「絶対にオレのほうができるのに」と思いながら、右サイドをやっていましたけど(笑)。

 そしたら、その年(91年)のJSLカップで読売と対戦して、1−3で完敗したんですよ。敗因は、ボランチのところでまったくボールが奪えなかったことでした。それからでしたね、僕がセンターで使われるようになったのは。

 ただゾーンプレスの浸透には、時間がかかりました。前半20分くらいまでは、プレスがガンガン効いているんだけど、だんだん息切れしてきてやられてしまう。(92年の)ナビスコカップも最下位に終わりましたけど、加茂さんはブレなかったし、辛抱強く僕ら若手を使い続けてくれました。

 Jリーグ開幕戦の相手は、清水エスパルス。ナビスコでコテンパンにやられた相手でした。「(エースの)トニーニョにマンツーマンマークを付けようか」という話もあったんですが、加茂さんはこれまでのスタイルを貫く決断をしました。結果は3−2で勝利。やっぱり勝負師であり、肝が座っているなと思いましたよ。

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