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日本代表 5年前

世界の“国技”は野球ではなかった…。日本国民が初めて知った世界最大のメジャースポーツ【日本サッカー戦記(2)】

シリーズ:日本サッカー戦記 text by 加部究 photo by Getty Images

辞退へと追い込まれた強豪イタリア

 合宿を終えると、2つのチームが結成され、それぞれ欧州遠征とムルデカトーナメント(マレーシア)へと出かけた。当然欧州組がAチームだったが、帰国後に発表された代表メンバーには、いくつかのサプライズも含まれていた。

「メンバーは新聞発表でした。同じCBだった小澤さん(通宏)から、『決まったら一杯やろうか』、と誘われていたんです。ところがその小澤さんが漏れてしまった。キャプテンで、ずっと試合にも出ていましたからね。驚きました。電話がかかってきて『これじゃ、やりにくいよな』と飲みの約束はキャンセルになりましたが、本当にショックでした」(鈴木)

 逆にムルデカ大会では、監督兼選手を務めた平木隆三と20歳の森孝慈が代表入りを果たした。欧州遠征から漏れ、代表入りはないと思っていた森は、故郷の広島へ戻り海水浴へ出かけようとしていたところに、兄の健兒から「選ばれたぞ」と連絡を受けたのだった。

 因なみに夏の欧州遠征で、日本代表の戦績は3勝6敗2分け。八重樫茂生をFWからMF(リンクマンと呼ばれ現在のボランチに近い役割)にコンバートしたグラスホッパー(スイス)との最終戦は、4-0で快勝した。28年前のベルリン五輪後には1-16で大敗し、4年前にも1-4で完敗した相手だった。

「八重樫さんの理解力が凄かった。連係もスムーズで、ボールも良く回り、速い攻撃が出来た。会心のゲームでした」(片山)

 当初東京五輪の抽選では、日本の属するグループDにイタリアが組み込まれていた。だがデンマークを中心とする欧州諸国から「プロの選手が入っている」とクレームがつき、辞退に追い込まれる。

 当時五輪は、あくまでアマチュアの祭典で、イタリアは後にフル代表の核を成すサンドロ・マッツォーラなど一線級のプロの若手をメンバーに入れていた。こうして日本に追い風が吹き、アルゼンチン、ガーナと3ヵ国で、ベスト8への2つの椅子を争うことになった。

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