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セリエA 5年前

06年、森本貴幸。完璧だった怪物への道、突如暗転…若き天才の芽はなぜ潰えたのか【セリエA日本人選手の記憶(7)】

日本人選手の欧州クラブへの移籍は通過儀礼とも言える。90年代、そのスタートとなったのがセリエAへの移籍だった。三浦知良や中田英寿など日本を代表する選手たちが数多くプレーしたイタリアの地。しかし、現在セリエAでプレーする日本人選手はゼロ。この機会にこれまでの日本人選手のセリエAでの挑戦を振り返る。第7回はFW森本貴幸。(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

シリーズ:セリエA日本人選手の記憶 text by 神尾光臣 photo by Getty Images

不遇と隣り合わせだったイタリアでのキャリア

森本貴幸
2006年、東京ヴェルディからカターニアへ移籍したFW森本貴幸【写真:Getty Images】

 シチリア島第2の都市、カターニア。この街の人々の間で、森本貴幸の活躍は今なお語り継がれている。

 18歳で単身この地に渡り、セリエAデビュー戦でいきなりゴール。クラブが久々にセリエAに復帰して戦う中、急成長を続け主力にもなる彼は、地元出身の選手であるかのように人気を集めた。大型の移籍オファーも期待される存在として、注目まで受けていた。

 もっともそのキャリアは、不遇と隣り合わせだった。度重なるケガに泣かされたこと、またエースの重圧に苦しんだことなどに左右された。順調に成長を遂げていれば、どういうところに到達できたのだろうか。将来への期待を抱かせた、潜在能力の高い日本人FWだった。

 森本が東京ヴェルディを離れ、イタリアにやってきたのは2006年7月のこと。セリエA昇格を決めたカターニアは、同じ南部のレッジーナやメッシーナに倣って日本人選手を呼び寄せようとした。だが彼らが白羽の矢を立てたのは、18歳になったばかりの森本。J1リーグ歴代最年少得点を挙げ、飛び級でユース代表にも招集された逸材ではあるが、フル代表の招集歴がないばかりかJ1での出場経験もまだまだ少ない若手だ。

 実績を挙げた選手が海外に移籍する、というこれまでの流れとは異なるもの。しかしここには、カターニア側の強かな計算があった。

「今まで来た日本人選手は、日本のサッカーのルールの中で研鑽を積み、完成された状態でやってきた選手たちだ。それはリスペクトすべきものだが、そこから全く違うイタリアサッカーに順応するのは難しくなる。ならば才能のある選手を若いうちに獲得し、順応への時間を与えることが成功の道につながると我われは考えた」

 入団会見で、ピエトロ・ロ・モナコGMはそう語った。かつてウディネーゼのスカウト部門のチーフに座し、世界中の優秀な若者を安く見つけて高く買うビジネスモデルの確立に尽力した人物の一人である。ようは南米や東欧などの20前後の若手を呼んでくるのと同じ感覚で、森本の獲得を画策したのである。

「技術の高いインザーギ」へ変身

 そのための育成プランも組んでいた。所属はトップチームで、練習もトップチームで行う。ただしシーズンの最初のうちは、プリマヴェーラ(ユース年代の育成部門)の試合に出して実戦経験を積ませる。いきなり実戦投入して潰すこともなく、ベンチで腐らせることもなく、イタリアサッカーへの順応に時間を与える。そして結果を出せるようになったら、トップチームの試合に招集するという算段だ。

 これは非常に上手くいった。パスクアーレ・マリーノ監督率いるトップチームでは4-3-3のウイングとして試されたが、基本的にはゴールを意識するストライカーとして育成。プリマヴェーラでは2トップの一角、もしくはワントップとして最前線に張り、プレーの意識をゴール中心に向ける役割を課した。その結果、彼はゴールを量産。両足が均等に使え、ヘディングも決め、PKも冷静だ。母国で和製ロナウドとも呼ばれた怪物は、ロ・モナコGM曰く「技術の高いインザーギ」へ変身した。

 こうして評価を上げた森本は、2007年1月からトップチームに引き上げられる。そして1月28日のアタランタ戦の後半39分、0-1で負けた状態でピッチに出された。するとその3分後、エリア内でクロスを受けると、巨漢DFモーリス・カロッツィエーリの寄せに難なく耐えてシュートをねじ込んだ。

 そこからカターニアでは、森本フィーバーに火が付いた。「彼はものすごく成長している。あらゆる方面で注目されるべき存在だと思う」と主将を務めていたダビデ・バイオッコが持ち上げ、森本が街に現れればたちまち人だかりができる。

 イタリア語…いやカターニア方言を使いこなし、好物は地元のソウルフードである「馬肉」と宣言すればそれはもう人気者だ。3月には練習中に左膝前十字靭帯断裂の大けがを負いシーズンを棒に振るが、クラブは変わりなく完全移籍のオプションを行使した。

市場価値が上昇。CFのファーストチョイスに

 続く2007/08シーズンは完全にトップチームの一員となる。故障から復帰後いきなり先発した開幕のパルマ戦では1ゴール1アシスト。そこから度重なる故障に苦しみ出場機会は少なくなったものの、試合に出れば強烈なインパクトを残した。

 コッパ・イタリア準々決勝ウディネーゼ戦の第2レグでは、残り9分で投入されるや決勝ゴールを挙げ、クラブ史上初の準決勝進出に貢献。そして残留がかかった最終節のローマ戦でも、途中出場から数々のシュートチャンスを創出したのち、ホルヘ・マルティネスの同点ゴールを導き出し、チームを残留させた。

 2008/09シーズンの前半戦は、CFのポジションを争う選手たちが多く加入した関係で出場機会は失われてしまう。ワルテル・ゼンガ監督が「彼をレンタルに出して修行させることも考えている」と言った矢先の12月21日、ローマ戦で先発起用されるや2ゴールを挙げた。以降クラブは森本をCFのファーストチョイスに据え、彼も期待に応えて活躍した。

 7試合3アシストという数字は、実質後半戦だけで稼いだようなもの。とりわけ、エディンソン・カバーニら強力な戦力を擁するパレルモとのダービーマッチで1ゴール2アシストを挙げたパフォーマンスは、アウェイで4-0というチームの勝利とともにファンの鮮烈な記憶となっている。

 裏抜けのスピード、クロスへの反応の鋭さを活かして結果を出し、市場価値は瞬く間に上昇。ここまでくれば、クラブは売りを考える時だ。4年目の2009/10シーズン、ロ・モナコGMは「森本がカターニアにいる最後の年になる」と銘打って、彼をCFの主軸に据えるチーム作りを行った。これでさらにゴールを稼いでもらい、さらなる評価を勝ち取ってビッグクラブに売りに出すというプランを立てた。

背負った責任。そして味わった苦悩

マキシ・ロペス
シーズン途中にカターニアに加入したマキシ・ロペス【写真:Getty Images】

 ところが、上手くはいかないもの。助監督上がりで人格者として知られたジャンルカ・アツォーリ監督は森本をエースとして使うが、チームとして結果が出なくなる。すると、その責任を森本が背負いこむようになってしまった。実際彼自身もシュートチャンスを外してしまい、試合に勝ちきれない原因となってしまう。すると試合後地元メディアに対して「勝てなかったのは僕のせいだ」と言い出した。

 自責の念が強いのは日本人として自然なところではあるが、イタリア人にとっては衝撃と取られた。チームもクラブもメディアも、森本のことを心配するようになってくる。彼に期待してCFの控えを用意していなかったクラブは、冬にテコ入れを決めた。まずは監督を更迭し、シニシャ・ミハイロヴィッチを招聘。そして「森本を休ませるため(ロ・モナコGM)」に、バルセロナでのプレー経験もあるマキシ・ロペスを獲得したのだ。

 実戦経験が豊富で屈強なマキシ・ロペスは、たちまちセリエAの水にも慣れる。ワントップとして戦術上の柱になり、ミハイロヴィッチ監督の厳格な指導のもとでチームもたちまち息を吹き返した。

 ただ、森本はこの流れから外れた。CFのポジションは、マキシ・ロペスに追われる。一方でウイングにも守備への貢献を要求する戦術の中では、点取り屋としての動きに特化してしまった彼に居場所はなかった。ステップアップに向けた勝負の1年と位置付けられたシーズンで、主力から落とされるという不遇を味わった。

 南アフリカワールドカップ後、森本は結局カターニアに残留した。もっともその後は、余計に出場機会を減らした。ミハイロヴィッチ監督のフィオレンティーナ移籍で就任したマルコ・ジャンパオロ監督は、2トップへの転換を約束し森本を慰留する。ところがシーズンに入るやいなや突如方針を転換。昨季と同じような状況となった森本には、ベンチスタートや招集外も増えた。

ファンの記憶に刻まれた森本貴幸の姿

森本貴幸
森本貴幸の姿は、今でもカターニアのファンの記憶に刻まれている【写真:Getty Images】

 そしてこの頃から、再び故障にも悩まされるようになってくる。靭帯のケガは筋力のバランスを崩し、様々なところに影響を及ぼすといわれるが、その通りのことが森本に起こった。2011年1月には膝を手術。キレが戻らず、途中就任したディエゴ・シメオネ監督の信頼を得ることはできなかった。

 同年7月からはレンタルでノバーラに移籍するものの、そこでも度々膝の炎症に悩まされ、本領発揮はならず。2012/13シーズンには再びカターニアに戻るが、1ゴールを挙げることもできず、冬にUAEのアル・ナスルへと移った。

 FWはゴールが全て。ドリブルでの突破力を売り物にしていた森本を、セリエAで通用するストライカーとして育成しなおしたカターニアの思惑はある程度当たっていた。ただエリア内の仕事に特化したFWは、ゴールを挙げ続けることでしか生きながらえる術がない。結果が出せないことは、定位置を失うことに直結する。点取り屋への転換がかえって戦術面での対応力を狭め、のちに出場機会を減らすことにも繋がったのは皮肉だった。

 現役時代のフィリッポ・インザーギ、また今のクリスティアーノ・ロナウドなどは、シュートを外しても何事もなかったようにゴールへと向かう。森本がカターニアで自責の念に苦しんでいた時、果たしてそういうメンタリティを持ち得たのだろうか。

「ケガをしても痛いと言わない。だからこちらから止めないと彼はプレーをやめない」とゼンガ監督をはじめクラブ関係者は常々心配していた。本人の責任感の強さが裏目にでるような顛末になったことを、カターニアの人々は今も残念がっている。

 そんなカターニアの地元記者からは、著者のもとに度々連絡が来る。「タカ(森本)のJリーグでの結果は記事にしているんだよ」。今、クラブは3部。セリエA時代の興奮を物語る1ページとして、ファンは森本のことを記憶に残している。

(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

【了】

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