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セリエA 5年前

10年、長友佑都。低評価を覆して生き残った男の真実。批判の連続から、愛されるまでの物語【セリエA日本人選手の記憶(8)】

日本人選手の欧州クラブへの移籍は通過儀礼とも言える。90年代、そのスタートとなったのがセリエAへの移籍だった。三浦知良や中田英寿など日本を代表する選手たちが数多くプレーしたイタリアの地。ここ最近は日本人選手が所属することはなかったが、今夏に冨安健洋がボローニャに移籍したことで、再びセリエAの注目度は高まりそうだ。この機会にこれまでの日本人選手のセリエAでの挑戦を振り返る。第8回はDF長友佑都。(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

シリーズ:セリエA日本人選手の記憶 text by 神尾光臣 photo by Getty Images

セリエAにおける長友の実績は「成功」

長友佑都
南アフリカW杯後、チェゼーナへ移籍しセリエAデビューを果たした長友佑都【写真:Getty Images】

 移籍後半年でビッグクラブに引き抜かれ、7年半生き抜いた。セリエAにおける長友佑都の実績は、間違いなく『成功』のカテゴリーに位置されるべきものだ。

 南アフリカワールドカップ直後の2010年夏、長友は昇格組のチェゼーナに移籍する。意識的なものだったかどうかは分からないが、そこからチームに溶け込み、実戦で活躍するまでの流れは、先人たちの成功例をなぞり、失敗例から学んでいたもののようにも思えた。

 通訳は置かず、食事では選手の輪の中に積極的に入る。相手の言うことを介するということのみならず、自分を理解してもらおうとするための手段。過去の日本人選手には、中田英寿のように語学を磨いて飛び込んだものもいれば、シャイな人という壁が越えられなかったものもいた。一方で長友は、捨て身でコミュニケーションをとる方を選ぶ。あまりにも陽気な様から、明るいノリで知られるナポリ人ふうに『ナガティエッロ』というあだ名さえつけられていたという。

 チームへの適応も早かった。日本サッカー通のマッシモ・フィッカデンティ監督は、長友のストロングポイントを熟知。イタリアの場合、サイドバックにはステイを命じることも多々あるのだが、彼には積極的な上下動を許した。開幕スタメンで出るや、その走力と運動量をアピール。矢継ぎ早にオーバーラップを繰り返し、サイドに流れてきた相手のアタッカーにしつこくまとわりつく。開幕戦のローマ戦ではドロー、そして第2戦のミラン戦では勝利に貢献した。

 立場は不動になり、主力として走り続ける。玄人筋の評判も上がる。他会場の試合を取材に行けば、居合わせた衛星TVの記者はこう言う。「チェゼーナの試合を見たぞ。あの長友っていうのはいいよな」。

 数ヶ月後、その彼の口から「長友、インテル移籍か」という情報が出た。2011年1月31日、アジアカップから戻ってきたのち、急遽チェゼーナからミラノへ移動。冬の移籍市場がクローズされる最終日ギリギリでの移籍が決まった。

インテルというビッグクラブでのプレッシャー

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チェゼーナ移籍からわずか半年後、長友はイタリアの名門・インテルへの移籍を果たす【写真:Getty Images】

 チェゼーナでのパフォーマンスが評価され、晴れての移籍である。しかし入団会見の日に集まっていたインテリスタたちにきくと、むしろその時のパフォーマンスは評価対象外だというのだ。「チェゼーナでのプレー? 知らないね。問題はウチに来てもやれるかどうかだからね」。それが、ビッグクラブのプレッシャーの一端である。ハビエル・サネッティにサミュエル・エトー、ディエゴ・ミリートにウェズレイ・スナイデル。これらのスターと同等とは言わないまでも、そのレベルに合ったプレーをしなければ許されないという雰囲気である。

 加えて、ラファエル・ベニテス監督が解任され、レオナルドが後任に招聘された直後のこと。前シーズンに3冠を達成したクラブのファンはなおのこと結果に敏感となっている。その厳しさを受け、メディアは常に辛辣だ。上下動はするが、ポジショニングに不安定さが見えようものなら「ポジショニングがちぐはぐでリスキー」と書かれる。親切でフレンドリーなチームメイトたちも、ピッチでの要求は厳しい。
 
 プレッシャーは、ダイレクトで長友本人に伝わっていたのである。

「ビッグクラブで闘う為には今まで感じたことのないプレッシャーもあるし、そのなかで心に余裕ができて行かないといいプレーは出来ないと感じていた」

 縮こまずアグレッシブにプレーするために、まず心に余裕を持つように努める。その後長友の出場機会は増えていき、移籍から半年で2ゴール1アシストを記録した。ピッチでは怖気付かずに、最後まで走る姿勢はサポーターにも伝わる。常に人気者であり、またインテルのキャリア終盤までリスペクトを払うファンが一定数いたということがその証左であった。

 ただ2年目以降、周囲からのプレッシャーはより厳しいものになっていく。ちょうどこの時期を境に、インテルはクラブとして過渡期を迎えることになるのだ。マッシモ・モラッティ会長のもとで強大な戦力を揃えたが、一時期赤字は2億ユーロを突破。長友の加入した2010/11シーズンでも8681万ユーロと巨額であり、クラブは大型選手の放出(2014年には身売りも)を余儀なくされるようになった。

どんなプレーをしても批判。それでも怠らなかった努力

 そうなると残るのは、所属メンバーに対する厳しい目だ。以前までの実績や能力などを考えれば及第点のプレーをしても、「〇〇とは違う」と昔のメンバーを比較に出してメディアは批判するのである。とりわけ長友には、毎試合のように新聞の採点欄で酷評が待っていた。チームも勝てず、成績不振のたびに監督も替わるので、要求されるタスクも変わる。そんな中でオーバーラップに慎重になれば「積極性がない」と叩かれ、逆に果敢に攻めれば「ポジショニングがめちゃくちゃ」などと叩かれる始末だった。

 しかし長友はその雰囲気に押しつぶされず、努力を続けた。守備面で堅実な対応を求めるクラウディオ・ラニエリ監督にはその通り従い、チームの中で規律を保とうとする。ユース上がりのアンドレア・ストラマッチョーニ監督が就任した直後はスタメンを外されるが、練習を通して評価を勝ち取る。

 スピードのあるファン・クアドラードとのマッチアップを前に「素晴らしい選手だが、お前の方が速いから抑えられる。信頼してるからな」と言って送り出されるまでになった。3バックの使い手であるワルテル・マッツァーリ監督のもとでは左ウイングバックとして起用され、果敢に前に飛び出して6ゴールを奪った。

 利き足でない左足のクロスも個人練習で磨き、多彩なポジションに対応。クラブは毎年のようにサイドバックを補強するが、結局ポジションを勝ち取っているのは長友だという状態は続いた。

「2、3人同じポジションに良い選手がいるのは、ビッグクラブでは当たり前のこと」。競争という現実を受け入れていた彼は、口癖のようにそう語っていた。

放出候補になっても…跳ね返す逆境

 しかし長友は全力プレーを見せる一方で、失点に繋がるミスを度々やってしまっていた。メディアは「限界がある」ということを口にするようになり、クラブは2015年に放出へと動こうとした。練習では外され、練習試合になれば異なるポジションでのプレーを余儀無くされる。戦力外扱いに近い状態で、移籍の噂も流れながら残留。2015/16シーズン後に入った後は、しばらく出場機会を失っていた。

 だが、彼は練習してチャンスを待った。そして10月31日、ホームのローマ戦でスタメンに抜擢をされる。ジェルビーニョとモハメド・サラーの爆発的なスピードを抑えて欲しいという、ロベルト・マンチーニ監督の狙いは明らか。長友は期待に応えて両者を抑えきり、チームに勝利をもたらした。

 試合に出られないながらも、走れる体を作っていたことは多くのサッカー関係者の賞賛を呼んだ。「練習? 逆にモチベーションは上がってますよ」というセリフは実に長友らしかった。

 逆境を跳ね返し続け、低評価を覆して生き残る。そしてシーズン終了前に、2019年6月までの契約にサイン。入団会見で話すイタリア語はすっかり流暢になっており、「自分の家」だと語っていたピネティーナでの日々がどれだけ充実したものであったかが垣間見えた。

 しかし長友が、その契約をインテルで満了することはなかった。

最後まで長友は長友であり続けた

長友佑都
数多くの試練を乗り越え、インテリスタに愛された長友。最後の最後まで“らしさ”を忘れなかった【写真:Getty Images】

 2016/17シーズン、マンチーニ監督がプレシーズンで突然辞任。後任には、サイドバックを含めたDFに選手にオーバーラップよりも後方からのビルドアップを求めるフランク・デ・ブール監督が就任した。

 再び長友はスタメンを落とされる。成績不振でデ・ブールは解任されるが、その後にきたステファノ・ピオーリ監督もサイドバックへの要求は似ていた。長友は出場機会を得ることができず、たまに出られれば大一番のナポリ戦のように決定的なミスで失点へと絡んでしまう。こうなると、2019年まで契約を残したことは、残存期間というよりも、移籍金収入を得られるうちに売却すべき目安として語られるようになってしまった。

 しかしそれでも、長友は長友であり続けた。2017/18シーズン、ルチアーノ・スパレッティ監督が就任。規律の高さと裏へ駆け抜けるタイミングの良さを評価し、2100万ユーロの移籍金を叩いて獲得されたダウベルトに代わってファーストチョイスに据えた。

 長友は重要な試合でも勝利に貢献し、サンプドリア戦での交代時にはスタンディングオベーションも貰っていた。決定的なミスをしても挽回しようとした姿勢そのものは、インテリスタに理解され、愛されていたのである。

 結局長友はその冬、トルコ・スュペルリグのガラタサライにレンタルで移籍。優勝に貢献したのち、半年後には完全移籍を決めた。

 背は大きくなく、事あるごとに限界を叫ばれ、プレッシャーを受けてミスもしたが、努力はやめない。選手たちに溶け込み、練習して体を作り上げ、ビッグクラブのプレッシャーを味わいながら「何度でも這い上がる」という精神をピッチでし続けた。日本人選手としてイタリアでの在籍期間が最長になったのは、結局のところそんな男だった。

(取材・文:神尾光臣【イタリア】)

【了】

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