フットボール批評オンライン

「僕の顔が死んでいる」山田直輝を生まれ変わらせた3年間。浦和レッズ時代から変わらぬ頑固者が手に入れた新しい自分とは…

シリーズ:フットボール批評オンライン text by 藤江直人 photo by Getty Images

フットボール批評オンライン特集記事

 高校3年生でJリーグのピッチに立ち、18歳のときにサッカー日本代表デビューを果たした山田直輝。将来を嘱望された山田のキャリアは怪我とともに暗転したが、浦和レッズと湘南ベルマーレで過ごした15年は、天才少年を責任を背負うことのできるプロサッカー選手へと成長させた。本稿では、知られざるその苦悩と成長の15年を、本人の言葉から明かしていきたい。(取材・文:藤江直人/本文11,932字)※全文を読むには記事の購入が必要になります。

「特別な存在」だった山田直輝

 スタジアムに響くチャントの歌詞が、ピッチの上で山田直輝が放つ存在感の変化を物語る。

 浦和レッズユースからトップチームに昇格した2009シーズン。真っ赤に染まった埼玉スタジアムで、ファン・サポーターは「俺たちの直輝 浦和のハート」と歌い続けた。

 あれから14年。この7月で33歳になった山田へ、湘南ベルマーレのホーム、レモンガススタジアム平塚に駆けつけたファン・サポーターは共闘を求めて叫びまくる。

「ヤマーダ ナーオキー ヤマーダ ナーオキー 俺らとともに 勝利のために」

 ルーキーイヤーの山田を振り返るには、彼のひと言で十分だろう。同じ2009シーズンにトップチームへ昇格した原口元気(現・シュツットガルト)は、ユース所属の2種登録選手として2008シーズンの浦和の公式戦でピッチに立っていた、ひとつ年上の山田をこう語っていた。

「チームのみんなを輝かせてくれる特別な存在ですね」

 ピッチを縦横無尽に走り回り、ワンタッチパスで攻撃にテンポをもたらし、相手の意表を突くスルーパスで決定機を演出する。18歳とは思えない威風堂々としたプレーに、当時の日本代表を率いていた岡田武史監督も魅せられた。2009年5月のチリ代表戦でA代表デビューを飾った山田は、試合終了間際に本田圭佑の代表初ゴールをアシストしている。

 ジュニアユースとユースでともに日本一を戴冠。黄金世代と呼ばれたチームをけん引し続けた浦和のアカデミー時代を含めて、十代のころの自分を山田はこう振り返る。

「とにかくサッカーをするのが大好きでした。埼玉スタジアムで、浦和レッズの熱狂的なファン・サポーターの前でサッカーをすることに幸せを感じていて、何年後にどうなってとか、海外に行ってとか、日本代表でとか、そういったものを何も考えずに日々を過ごしていました。挫折というものを味わったことがなかったし、自分のサッカーをすれば活躍できる、と当たり前のように考えていて、それをそのままピッチの上で表現していた感じでしたね」

 まばゆい輝きを放つ山田が、そのまま浦和の、そして日本代表の中心を担うと誰もが思い描いた。だからこそ、チャントの歌詞に「浦和のハート」と書き記された。

 しかし、好事魔多し。2010年に運命が暗転する。

「プロのサッカー選手として、もう生きていちゃいけない」

サッカー日本代表MF山田直輝
【写真:Getty Images】

 若手中心の編成で臨んだ1月のイエメン代表とのアジアカップ最終予選で先発したが、前半途中に相手の悪質なタックルを食らって右足腓骨を骨折。リハビリを経て復帰を果たすも、8月の練習中に同じ箇所を再び骨折した。2012シーズンの開幕直後には左膝前十字じん帯を損傷する全治6カ月の重傷を負い、出場資格があったロンドン五輪も棒に振った。

 2012シーズン以降の3年間で、山田のリーグ戦の出場はわずか8試合、プレー時間の合計は2試合分にも満たない164分にとどまっている。

 山田の述懐を聞けば、文字通りのどん底にいた状況がわかる。

「プロのサッカー選手として、このままではもう生きていちゃいけないと自分のなかで思っていました。試合に絡めないどころか、ピッチに立てるレベルに達していないと。毎日のように練習を必死にやっているのに、状態がまったく戻らない。これは僕の想像ですけど、それまで挫折を味わっていなかった分だけ、立ち直る力というものが養われていなかったのかな、と」

 ターニングポイントが訪れたのは、さいたま市内の大原サッカー場で山田がリハビリに明け暮れていた2014シーズンの途中だった。トレーニングマッチを終えた湘南ベルマーレの曺貴裁監督(現・京都サンガF.C.監督)から、山田はおもむろに声をかけられた。

 湘南のユースを率いた経験を持つ曺監督は、浦和のユースで楽しそうにプレーしていた山田を何度も目の当たりにしている。当時とのギャップがあまりにも大きかったからか。山田の記憶には、会話のなかで曺監督からかけられた言葉がいまも鮮明に刻まれている。

「僕の顔が死んでいるようだ、と言われたんですよ」

 図星だった。すべてを見抜かれているような気がした。サッカー人生を繋ぎ止めるためには、浦和から一度外に出るしかない。移籍を考えていた山田のもとにそのオフ、湘南から期限付き移籍のオファーが届いた。山田の獲得を湘南の強化部へ要請したのは曺監督だった。

「僕を鍛え直したい」恩師との出会い

湘南ベルマーレMF山田直輝と曺貴裁監督(当時)
【写真:Getty Images】

 都内のホテルで設けられた交渉の席。曺監督は単刀直入に「俺のところに来い」と切り出した。熱い言葉の意味を、山田はこう受け止めた。

「来いと言っても、僕がサッカー選手として湘南の力になれるから来てくれという誘いではなく、お前をもう一度サッカー少年のような顔に戻したい、という曺さんの気持ちで誘ってくれたんだろうなと。曺さんは直接言わないですけど、僕は確実にそうだと感じました。僕を使いたいポジションなどを含めた戦術的な話もしましたが、おそらくは表面上のことで、曺さんは本当に僕を鍛え直したい、その一心だけで誘ってくれたといまでも思っています」

 山田のもとには湘南以外にもオファーが届いていた。しかし、曺監督の言葉を聞いて移籍を決めた。交渉の席で、山田は「自分を変えたいんです」と思いの丈を伝えている。

「周囲にいろいろと話を聞いても『曺さんのもとならば成長できる』と言われていたなかで、さらに曺さんの本当の気持ちというものがすごく伝わってきた。だからこそ、そういう言葉が出たんだといまでは思っています。もう湘南に行くしかない、と」

 しかし、山田の心技体は想像以上に錆びついていた。

 新天地・湘南での初練習を終えた山田の様子を、曺監督は「パスをもらおうとしない。サッカーが大好きなはずなのに、まったく楽しそうじゃない」と後に振り返っている。

「同じことを曺さんから直接言われました。サッカーが怖いというよりも、どうしていいかがわからなかった感じでした。サッカーから離れすぎていて、まるで違う競技をやっている感覚というか。初めて挑戦する競技で、急に試合に出されるみたいな感覚だったので」

 初めて右足腓骨を骨折した2010年1月に味わわされた、サッカー人生で初めての挫折を乗り越えられた、と山田が実感できたのは「2016年の夏以降でした」という。ピッチ上でのパフォーマンスとして具現化されたのは、名古屋グランパスとのセカンドステージ最終節。それまで無得点だった山田は開始6分、そして60分にゴールを決めている。

 前者はミドルレンジから迷わずに左足を振り抜き、後者は巨漢の田中マルクス闘莉王を吹き飛ばしてボールを奪い、角度のない位置から右足で逆サイドのネットに突き刺した。いずれもアイデアとセンス、力強さが融合されたスーパーゴールだった。

 しかし、山田は「復活した」という表現に苦笑しながら首を横に振る。

「戻った、という感じではないですね。新しく生まれ変わった、という感じですね。以前は本当に感覚のままに、自分が思うままにプレーしていたんですけど、それが上手くいかなくなって、変わろうと思って湘南に来て、必死に積み上げてきたことがようやく芽を出して、という時期だったので」

復活ではない。生まれ変わった山田直輝

フットボール批評オンラインのインタビューを受ける山田直輝
【写真:編集部】

 当時26歳の山田が言及した「新しい自分」とは何なのか。山田が続ける。

「チームのために、周りの人のために、という気持ちがすごく強くなったところですね。それまでは自分がよければいいと思っていた。自分のプレーがよければ試合の結果は関係ない、という感じだったのが、チームが勝たないといけないとか、チームの助けにならないといけないとか、周りの人のために働けるようになったのが自分の一番変わったところですね。

 それは湘南の色でもあるというか、選手たちもスタッフも、常に全員がよくなるために努力をしているなかで感じられたものでもある。浦和は個人が上達するために日々のトレーニングをする、という感じで、もちろんそれもありですけど、湘南というチームは誰も置いてきぼりにしない、みんなで前へ進んで行こう、という雰囲気に満ちている。それがすごく新鮮に感じられて、自分にもそういうメンタリティーが植えつけられた、と感じています」

 迎えた2016シーズンのオフ。山田は前年に続いて期限付き移籍を延長している。

 同じチームへ3シーズン続けて期限付き移籍するのが異例と周囲から言われても、2017シーズンの湘南が山田にとって初体験のJ2リーグを戦う状況もまったく関係なかった。

「迷いはなかったですね。2016シーズンの最後にようやく試合に出られて、湘南の力になれると確信できたけど、チームはJ2に降格してしまった。今度は自分の力で、1年でJ1に戻さないといけない、という気持ちが強かった。なので、期限付き移籍の3年目が珍しい、などといった感覚は本当になくて、当たり前のように2017年は湘南で戦わなければいけない、と考えていました。浦和の考えも、逆にもう1年、しっかりと試合に出てこい、という感じだったと思います」

 結果から先に言えば、湘南は2017シーズンのJ2リーグを制し、チームの合言葉として掲げていた1年でのJ1復帰を成就させた。そのなかで山田はチーム内でフィールドプレーヤーではトップタイの39試合に出場し、プレー時間も3000分を超えた。

 それまでの自己最高記録が、ルーキーイヤーの20試合出場、プレー時間1365分だった。J1とJ2の違いはあるものの、山田自身が「プロになって初めて、1年間を通してしっかりとチームの力になれたシーズンだった」と位置づけているのも無理はない。

身体のために私生活も変えた

 前年から右肩上がりだったパフォーマンスを、42試合を戦う長丁場のJ2戦線で継続できた要因のひとつとして食生活の変化があげられる。きっかけは2016シーズンのオフ。乳製品と卵が山田の体にはよくないとわかった遅延型アレルギー検査の結果だった。

 2016シーズンのセカンドステージにサガン鳥栖から期限付き移籍で加入した、同じ1990年生まれの岡本知剛(ロアッソ熊本でプレーした2021シーズン限りで引退)が遅延型アレルギー検査を受けると聞いた山田が、自分の体をもっと知りたいと興味を抱いて受検した。

「そうしたら、乳製品と卵が僕の体にはあまりよくない、と。アレルギー反応というほどでもないんですけど、微量の炎症を起こす、といったことがわかって。両方とも大好きだったので断つのは大変でしたけど、始めて2カ月ぐらいで目に見えてわかる変化があった。体重はそのままなのに体脂肪が落ちたし、朝の寝起きや排便がすごくよくなった。これは続けた方がいいと確信しました」

 2012年の年末に結婚した夫人も、食生活の改善に全面協力してくれた。

「だから家にいるときは安心したし、逆に外にいるときの方が大変でしたね。外食するときなどは注文する前にお店の方に聞くと、ほとんどで乳製品と卵が使われている。加工品などはほぼすべてで使われているので食べられるものが少なかったし、我慢するのは本当に大変でしたけど、怪我そのものも減っていたし、それまでのリハビリの日々を思い出すと頑張れました」

 1年間を通して良好なコンディションを維持できたからか。2017シーズンの山田は、とにかくチームのために走り回った。1試合の走行距離も多いときで13キロに到達し、味方を助けるために、そして湘南の勝利のために、率先して献身的かつ泥臭いプレーを体現できていた。

 ピッチの内外のすべてが充実していたのだろう。シーズンが佳境に差しかかったころには、山田はこんな言葉を残している。

「これだけ多くの試合に出させてもらっているなかで、チームを勝たせるために背負う責任というものが、こんなにも重たかったのかと感じています」

 自分を中心にすえていた思考回路が、チームの勝利を中心としたそれに変わった。十代のころと180度異なるプレースタイルに胸を打たれ続けたからこそ、湘南のファン・サポーターは山田のチャントの歌詞に「俺らとともに 勝利のために」と書き込んだ。

「湘南ベルマーレに来ていなければ…」

湘南ベルマーレ戦でプレーする浦和レッズMF山田直輝
【写真:Getty Images】

 そして、山田はいまもサッカー人生のターニングポイントとして、湘南に期限付き移籍で在籍した2015シーズン以降の3年間をあげている。

「湘南ベルマーレに来ていなければ、他のどんなチームに移籍していても、もうサッカーをやっていなかった。それは間違いないと思っています」

 生まれ変われたという手応えと、湘南へようやく恩返しができたという実感。2つの思いを胸中に同居させていた山田は、湘南のJ1昇格とJ2優勝を決めてからそれほど時間がたたない段階で、4年ぶりとなる浦和への復帰を決断していた。

「あの段階で帰らなかったら、もう一生浦和に復帰するチャンスはないと思っていたので。浦和には育成のときからずっと育ててもらった恩があるし、僕が怪我をして試合に出ていないときでもずっと支えてくれた浦和のファン・サポーターの前で、あのスタジアムで元気な僕の姿をしっかり見せなきゃいけない、という気持ちもあったので」

 ただ、別れがつらかった。サッカーに対して真正面から向き合い続けた3年間という日々は、言葉では言い表せないほど濃厚でかけがえのない宝物だったからだ。

「選手として戦えなかった僕をここまで戻してくれた、という感謝の気持ちがあった。みんなからも残ってほしいと言ってもらえたけど、悔いなく自分のサッカー人生を送りたいと思ったときに、チャレンジしないと後悔すると思ったので。ただ、解団式では退団する選手に花束を贈呈する選手がいて、僕に渡したのが同級生でめちゃくちゃ仲のいい端戸仁(現・鹿児島ユナイテッド)だったんですけど、あいつ、花束を渡す前からめちゃくちゃ泣いていて、僕ももらい泣きしてしまって。

 ただ、曺さんには最後の最後まで叱られましたね。ここまで湘南のために戦ってきてくれたけど、もっとしっかりやれと。浦和でもしっかりとお前らしさを発揮してこいと。叱られるというか、叱咤激励ですね。湘南に来た最初のころは叱られた記憶ばかりでしたけど、最後のころは『お前、ようやくいい顔になってきたな』と。そう言われたときは嬉しかったですね」

 浦和復帰にあたって、あえて「18」番を選んだ。湘南で「8」番を担った3年間を常に背負う、という決意が込められていた。

「湘南のスピリットを忘れたくない、という気持ちが強くて『8』のつく背番号から選びました」

「今回は戦力として僕を取ってほしい」

 覚悟を決めて臨んだ2018シーズンは、しかし、選手層の厚い浦和でリーグ戦の出場がわずか3試合、プレー時間も74分に終わった。最後に出場したのが、88分から投入された5月13日の鳥栖戦。6月の練習中には右足腓骨に3度目の骨折を負い、手術とリハビリの日々を余儀なくされた。

 翌2019シーズンのリーグ戦は1試合に出場しただけだった。埼玉スタジアムに迎えた相手は奇しくも湘南。前半に決まった杉岡大暉のゴールが見逃される誤審が起こったなかで、チーム全体が気持ちを発奮させて臨んだ後半に湘南が3ゴールを連取。大逆転を果たした伝説の一戦だ。

「劇的にやられましたね。ああいうときの湘南は力を発揮するんですよ。見ていても後半の湘南はまったく違っていましたし、僕が入ってからも勢いの差というものを感じていました」

 自身が投入された76分の直後に同点弾を、アディショナルタイムには逆転弾を決められた展開をこう振り返った山田は、リーグ戦で4試合の出場に甘んじた2度目の浦和での日々を「感覚的には、挫折したという思いはありません」と位置づけている。

「浦和に帰ったときから新しい自分を見せなきゃいけないと思っていたし、そのなかで湘南のスピリットだけは絶対に忘れちゃいけないって思って必死にやっていたので。最初に腓骨を折ったときとは違って、チームのためにならなきゃいけないとすぐに立ち直れた。以前に挫折したときの反省と、湘南での3年間で培ってきたものの両方のおかげだと思っています」

 試合に絡めない状況がさらに続きそうななかで、7月4日には29歳になった。サッカー人生の残り時間を考えたときに、山田は「残り半年間も無駄にできない」とある決断を下した。

 湘南への期限付き移籍が発表されたのは7月24日だった。

「どちらかというと、湘南に行かせてほしい、という感じだったと僕は思っています。ただ、最初に期限付き移籍した2015シーズンと違って練習も必死にやっていたし、すぐに湘南の力になれる自負もあったので、今回は戦力として僕を取ってほしい、この夏に行きたいと。そんな感じでしたね」

 当時の浦和のリリースには、山田のこんなコメントが綴られている。

「浦和レッズは僕の愛するチームであることは変わりません。これからはみなさんと同じ一サポーターとして、応援していきます。まだまだサッカー選手として成長する山田直輝を少しでも応援していただけたら嬉しいです。本当にありがとうございました」

 形の上では期限付き移籍だが、浦和へ復帰する選択肢を山田は持ち合わせていなかった。

退路を断ち湘南ベルマーレへ。山田直輝が示した覚悟

湘南ベルマーレMF山田直輝
【写真:Getty Images】

「これでまた帰ってくることはない、と自分としては考えていました。出ていってちょっと試合に出てまた帰ってきたら浦和としても『エッ』となるだろうし、湘南にしても試合にちょっと出たらまたいなくなっちゃうの、となりますよね。両チームに対して失礼だし、当時はまだはっきりと言えなかったですけど、そういう気持ちを僕はもう決めていたので」

 山田が言及した「そういう気持ち」とは、すなわち湘南への完全移籍を意味している。浦和との契約が2019シーズン限りで満了を迎えるタイミングもあった。それでも、生半可な気持ちで再び湘南のユニフォームに袖を通すつもりはなかった。

 だからこそ、自らの行動を介して覚悟と決意を示す必要があった。湘南との交渉の席で、坂本紘司スポーツダイレクター(現・代表取締役社長)に山田は言った。「10番をつけます」と。

「紘司さんは『10番と何番と何番が空いている。どれがいい』といった話をされて、僕の決意は揺るがなかったので10番と言ったんですけど。その後に誰かのつてで聞いたんですけど、紘司さんは『直輝があそこで10番を選んでいなかったら、ウチは獲得していなかった』と言ったらしいんですよ。何か後付けの引っかけ問題というか、僕の本当の決意を聞きたかったというか。僕としては10番が空いていると言われた瞬間から、サッカーで10番を背負う、というのはこういうことだと周りの人に感じ取ってほしかったのでよかったですけど」

 リーグ戦の中断期間を利用して、湘南は福島・Jヴィレッジでキャンプを張っていた。合流した初日だったか、あるいは2日目だったかは覚えていない。それでも山田は練習後に曺監督に呼び止められ、おもむろにかけられた言葉だけははっきりと覚えている。

 それは2015年の初練習後とはまったく異なる響きを持っていた。

「試合に出られなくて腐るんじゃなくて、お前がしっかりと練習していたのがはっきり伝わってきたと言われたんです。僕は浦和でほとんど試合に出ていなかったので、曺さんは僕のプレー映像などを見ないまま、最終的な判断を下さなきゃいけなかったと思うんですけど。どんな状況でも常に全力でやらなきゃいけない、という湘南での教えを浦和でも必死に体現してきたつもりです。それがしっかりできていたと思うと安心したというか、めちゃくちゃ嬉しかったですよね」

 しかし、恩師のもとでプレーできたのはわずか2試合だけだった。

 勝利した鹿島アントラーズ戦をベンチで見届け、自身の移籍後初ゴールなどでジュビロ磐田に競り勝った翌日の8月12日。曺監督のパワーハラスメント疑惑が報じられた。

 直後から曺監督は活動を自粛。高橋健二ヘッドコーチ(現・SC相模原ヘッドコーチ)が暫定的に指揮を執ったなかで、10月8日に曺監督の退任が発表された。

 指揮を執って8年目を迎えていた指揮官が突然いなくなる事態に、湘南が動揺しないはずがない。山田も例外ではない。ショックがなかったと言えば嘘になる。それでも6連敗を含めて10戦続けて白星から遠ざかり、最後は徳島ヴォルティスとのJ1参入プレーオフ決定戦で引き分け、規定によりJ1残留を決めたギリギリの戦いの過程で、山田は「10番」の重圧と責任を体現し続けた。

湘南ベルマーレの変化と背番号10の責任

湘南ベルマーレMF山田直輝
【写真:Getty Images】

「僕のなかではもちろん曺さんの存在は大きいですけど、湘南ベルマーレというチームにもめちゃくちゃ感謝の気持ちがあった。なので、曺さんがいなくなったからといって、再び湘南の一員になった僕の気持ちは絶対に揺るがなかった。僕が10番を背負っている間は絶対に降格させない、と言い聞かせてプレーしてきたし、自分が踏ん張っていればみんなも絶対に踏ん張れる、といったところを自分の背中を介して見せなきゃいけない、とずっと考えていました」

 言葉通りに湘南はJ1の舞台で戦い続け、2021年9月には退任した浮嶋敏前監督(現・湘南アカデミーアドバイザー)に代わり、トップチームの山口智コーチが新監督に就任した。その過程で「10番を背負う責任と重圧の方向性が変わってきた」と山田は感じている。

「智さんが監督になってから、もうひとつ上の段階を目指すチームにならなきゃいけない、というマインドに変わってきた。そのなかで自分がもっとチーム全体を押し上げていかなきゃいけないというか、もっともっと周りを巻き込んで上の段階に連れていかなきゃいけない、といった方向に変わってきている。このチームに長くいて、このチームの色を知っている選手の一人として、そうしたものをもっとみんなに伝えて、みんなで上に行かなきゃいけないと感じています」

 目指す場所がはっきりしているからこそ、今シーズンの湘南が置かれた現状にはもどかしさを募らせる。4月1日のガンバ大阪戦を最後に5分け10敗と、15試合も続けてリーグ戦の勝利から見放された。山田自身も5月に右ヒラメ筋の肉離れを起こし、5試合にわたって欠場を余儀なくされた。

 残留争いに巻き込まれている状況を、それでも山田は逃げずに受け止める。

「もともとの目標が5位以内だったので、そこに関しては届いていないですけど、シーズンが終わるときにどうだったか、というのが重要だと思っている。そして、残された試合をどう締めくくるかによって、自分の責任を果たせたかどうかがわかる。いまは力になれていないし、引っ張っていける存在でもないですけど、苦しい時期こそしっかりやらなきゃいけないと常に言い聞かせています」

「関係性があるからこそできる」

 勝てなかった試合のなかに、6月24日の鳥栖戦も含まれる。

 ホームのレモンガススタジアム平塚で0-6とまさかの大敗を喫し、クラブの1試合最多タイ失点を記録した不名誉な一戦で異彩を放つ場面があった。

 ビハインドを4点に広げられていた71分。FW町野修斗(現・キール)のスルーパスを受けたFW大橋祐紀がシュートを放つも、鳥栖のGK朴一圭が右足でセーブ。コーナーキックになった直後に、ペナルティーエリア内でフリーだった山田が大橋に詰め寄った。

 大橋を突き飛ばした、と振り返った山田はその真意をこう語る。

「正直、突き飛ばしたときの僕はすごく冷静でした。やらなくてもいいとも思いましたけど、それでもやった方がチームのためになると、チームに覇気をもたらす意味で今後の試合に向けても必要だと思ったので。あれは僕と大橋の関係性があるからこそできることであって、大橋も全然委縮していないし、僕がいつもガヤガヤ言っているのを大橋も知っている。ただ、あのシーンだけは譲れないものがあった。なので、何で僕にパスを出さないんだ、という感じで突っかかっていきました」

 譲れない部分とは何なのか。山田が続ける。

「僕の感覚では、僕がフリーでいるのを知っていて大橋がシュートを打ったと思っていたんです。僕に出せば95%ぐらいの確率で入っていたし、大橋ならばよくて60%から70%で結果的に外した。シュートを打つな、とは言わない。それでも打つなら決めろと思って言ったんですけど、後で大橋に聞いたら僕が見えていなかったみたいで。なので、選択肢として大橋もシュートを打つしかなかった。それならばあの場面で怒ってしまったのは僕が悪かった、と」

 試合後にラインでメッセージをやり取りし、真実を知った山田は「突き飛ばしてごめん」と大橋に詫びた。ただ、翌日に交わした会話のなかで、こんな注文も大橋に出している。

「次は周囲をちゃんと見るようにしてね」

 試合中に味方に対して感情を露にする極めて稀有なシーン。それでも、長い目で見ればチーム力を引き上げるきっかけになる。そう信じているからこそ、山田は後悔していない。

「試合中に熱くなるところは、若いころから変わっていないかもしれないですね。他の人から見たらよくない光景かもしれないけど、試合中の熱さというのは自分のよさだと思っているので」

父への思いと父親としての思い

浦和レッズMF山田直輝
【写真:Getty Images】

 サッカーへの向き合い方。乳製品と卵を断った食生活。背番号10を介して体現する重圧と責任。何よりもピッチ上で放つ泥臭い存在感。15年目を迎えたキャリアで、かつては天才少年と呼ばれた山田のなかで少しずつ、それでいて対極の位置に変わってきたものは少なくない。

 一方で変わらず自身のなかに脈打たせているものもある。クールに見えるその内面に試合中だけたぎらせる熱さも然り。自らを「僕、頑固者なので」と正直に明かす性格も然り。納得できなければ、目上の人間に対してでも「いやぁ」と必ず言い返す山田に、曺監督はかつてこう苦笑していた。

「あいつは相槌を打たないから」

 ピッチを俯瞰できる特異な感覚も、子どものころから変わらない。サッカーにおける最初の、そしていま現在も最高の師匠と慕う、父親の隆さんの教えでもある。

「父に『常に上から撮っているカメラの目線でサッカーをしろ』と言われていたんですよね。だからあのシーンはどうでしたかと試合後に聞かれたときに、相手のポジションとか自分や味方のポジションがかなり鮮明に僕の頭のなかに残っているんです」

 サンフレッチェ広島の前身となるマツダで、隆さんはサイドバックや中盤でプレーしていた。しかし、膝の怪我などもあり、山田が生まれた1990年に現役を引退している。YouTubeも何もなかった時代。憧憬の思いを抱く父がプレーする姿を、山田は一度も見ていない。

「でも、物心がついたときには僕のコーチだった父が、本気のプレーのすべてを僕に落とし込んでくれていたので。なので、父の現役時代のプレーをどうしても見たい、という思いはないんですよ」

 父から受け継がれた思いは、最愛の家族へも注がれている。7歳になった長女、11月には5歳になる長男へ、山田は父親としてこんな思いを抱いている。

「子どもたちに僕がサッカー選手だと覚えてほしいというよりも、僕が頑張っている姿を見た子どもたちにも、頑張ることの大切さを覚えてもらいたい。そういう気持ちだけですね」

ヒーローになって浦和レッズサポーターからブーイングを浴びるのは?

埼玉スタジアムでプレーする湘南ベルマーレMF山田直輝
【写真:Getty Images】

 山田のなかで、未来永劫に変わらないものがもうひとつある。湘南への完全移籍とともに袂を分かち合って4年目。山田はそれでも浦和を「僕にとっては特別なチーム」と位置づける。

「浦和と対戦するときだけは、意識しないようにしても僕のなかでは特別な試合になる。つらいときにも声をかけてくれた浦和のサポーターが本当に大勢いたし、そういう方々のためにもピッチで元気に走り回っている僕の姿を見せなきゃいけない。僕にできる恩返しといえばそれだけなので」

 25日にはレモンガススタジアム平塚に浦和を迎える。

 山田がピッチに立てば、湘南の一員として浦和と戦う節目の10試合目となる。対戦成績は1勝3分け5敗。唯一の白星をあげたのは2021年6月20日。コロナ禍で入場制限が課されていた埼玉スタジアムで、先発した山田は27分に1-1の同点に追いつくゴールを決めている。

 試合そのものは浦和の一選手に出場資格がなかったとして没収試合になり、個人の得点記録はそのままで、公式記録上は湘南が3-0で勝利した扱いになっている。それでも、浦和をホームに迎えた2020シーズンの開幕戦でも、敗れたなかで一時は同点とするゴールを決めた山田は腕をぶす。

「大事な試合や自分の思い入れのある試合で結果を残せるようになったのも、年齢を重ねてからなんですよ。それまでは、ここぞという試合でなかなか結果を出せなかった。なぜだろうといつも思っていたんですけど、やはり年を取って自分のなかが何かが変わってきているんでしょうね。僕たちのホームでは、押している試合が多いのに勝てていない。なので、今度こそ、ですね」

 そこで次戦に向けて、ちょっぴり意地の悪い質問をしてみた。

――勝利のヒーローになって、浦和のファン・サポーターから特大のブーイングを浴びるのは。

「ブーイングは嫌です。愛のあるブーイングだと、勝手に僕のなかで変換はしていますけど」

 屈託のない笑顔を浮かべながら、間髪入れずに返ってきた言葉にいまも浦和へ抱く愛が顔をのぞかせる。今シーズンを終えた時点で、浦和と湘南に7年半ずつ在籍する形となる自身のプロサッカー選手としてのキャリアにも感謝の思いを捧げながら、山田は前を見すえた。

「2つのチームにしか所属してないからこそ、両方への思い入れが強い。同じチームにできるだけ必要とされるような選手になりたい、とずっと思ってきたなかで、行ったり来たりはしていますけど、2つのチームでプレーして来られているのは、自分のなかではすごく幸せだと感じています」

 来シーズンも湘南をJ1で戦わせるために。痺れる戦いが待つ正念場で、山田の大きく、頼れる背中が、湘南にかかわるすべての人々が前へ進んでいく羅針盤になる。

(取材・文:藤江直人)

KANZENからのお知らせ

scroll top