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セリエA 1か月前

サッキの目に狂いはなかった。トリノ監督は「戦術家ではなく戦略家」。バノーリ監督は何が優れているのか?【コラム】

シリーズ:コラム text by 佐藤徳和 photo by Getty Images

“グランデ・トリノ”の復活へ。「カルチョは私にとって…」

 バノーリは、サッカーを熱くこう語る。「カルチョは私にとって大きな情熱だ。時にピッチ上での自分の振る舞いに少し恥ずかしさを感じることもあるが、それは情熱が、羞恥心を超えさせるからだ。私は選手たちにも情熱を抱いてほしいと思っている。私が求めることの理由を理解してほしい。強い責任感を持ち、挑戦し続けることを私は厭わない」。ピッチから選手に激しく指示を送る姿は、闘将のコンテを時に彷彿させる。バノーリもまた熱血漢だ。

 トリノは、1927/28シーズンのトップリーグ制覇を皮切りに、1949年までに6度の優勝を成し遂げ、7度の優勝を果たしていたユベントスとイタリアサッカー界の覇権を争ってきたイタリアのサッカーを語る上で絶対に欠くことのできないクラブだ。

 そして、1949年5月4日にトリノ郊外の丘陵地で起こったスペルガの悲劇もイタリア・サッカー史から触れずに通ることはできない、忌まわしい航空事故だ。トリノの選手18名と英国人のレスリー・リーブスリー監督、スタッフおよびクラブのフロントら5名を含む31名が命を落とした。トリノだけでなく、イタリアにとって、決して忘れることのできない惨劇である。多くの選手をイタリア代表にも送り出していたトリノはその後、チームの再建が上手く進まず、成績も低迷。10年はセリエAで耐え続けたが、1959/60シーズンにはセリエB降格も経験した。

 それでも、1975/76シーズンにはユベントスとの苛烈な優勝争いを制し、7度目のリーグ制覇を実現。“グランデ・トリノ(偉大なトリノ)”を復活させた。だが、それ以降は、1992/93シーズンのコッパ・イタリア優勝に留まり、現在はタイトル獲得とは無縁の日々を送っている。21世紀に入ってからは、2013/14シーズンと2018/19シーズンの7位が最高位だが、彼らが歩んできた歴史を鑑みれば、今いる場所がふさわしいものではない。少なくとも、欧州カップ戦の出場権獲得を夢見る権利はあるはずだ。

(文:佐藤徳和)

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【了】

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