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日本代表 10年前

代表での“ポスト遠藤”だった家長昭博「ボランチのプレーが何なのか、正直分からない。感覚でやれればいい」

ザックジャパンは発足当初から課題を抱えていた。遠藤保仁の代役探しだ。替えのきかない選手になっていた遠藤だが、彼が抜けるとチームの質はがらりと変わっていた。その解消案として起用されたのが家長昭博だった。天才と言われ続けた男だったが…

text by 元川悦子 photo by Kenzaburo Matsuoka

震災で消えたテストマッチ

 2011年アジアカップ優勝の後、ザックジャパンは3月にモンテネグロ戦とニュージーランド戦、6月にペルー戦とチェコ戦を消化したうえで、コパアメリカに参戦し、南米の強豪国相手に腕試しする予定になっていた。

 ところが、2011年3月11日に発生した東日本大震災によって3月の代表2連戦は中止。代わって震災復興チャリティマッチが開催されることになったが、代表合宿期間も短縮され、チーム強化にとっては少なからずダメージがあった。

 さらにコパアメリカ参加も断念せざるを得ず、やむを得ない事態ではあったが、ザッケローニ監督にとっても大きな誤算が生じたことだろう。

 指揮官に与えられた強化期間は3月の4日間と5月末からの約10日間。そこでザック監督は新戦力のテストと3-4-3の習熟に多くの時間を割くことにした。新顔の中でとりわけ注目されたのが、10代の頃から天才という名をほしいままにしてきたレフティ・家長昭博(現マジョルカ)だ。

 ガンバ大阪ジュニアユース時代から頭抜けた存在感を示し、年生年月日が全く同じ本田圭佑らを圧倒していた。オシムジャパン時代の2007年3月のペルー戦でいち早くA代表デビューを飾るなど、周囲の期待値は非常に高かった。

 だが、その後の伸び悩みと2008年2月のヒザ負傷が原因で、本田や長友佑都、岡崎慎司ら同世代の選手たちに追い越される格好になった。日頃は淡々としている彼も、どこか不完全燃焼感を抱えていたに違いない。

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