元Jリーガー・西村卓朗の新たな挑戦 第15回 親父が残してくれたもの

2007年から5年間「哲学的思考のフットボーラー 西村卓朗を巡る物語」という連載を行っていた西村卓朗氏。現役引退後、VONDS市原の監督として活躍していた西村氏は、今、J2水戸ホーリーホックに活動の場を移しています。今回は、VONDS市原時代にあった出来事を記します。なお、この連載は今後場所を移し、8月発売のフットボール批評にて、水戸ホーリーホックの強化部長としての考えや出来事を綴る連載として再スタートを切る予定です。(文:西村卓朗)

2017年06月11日(Sun)9時40分配信

シリーズ:元Jリーガー・西村卓朗の新たな挑戦
text by 西村卓朗 photo 編集部 Editors
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【これまでのお話】

2013年~2014年 VONDS市原時代 Off the pich

西村卓朗
現在は水戸ホーリーホックの強化部長を務める西村氏。【写真:編集部】

 まずは久々の連載になってしまったことをお詫び致します。申し訳ありませんでした。

 連載が滞ってしまった理由は他ならぬ、Off the pichの出来事だった。2013年末から、2014年の年明けにかけて親父の異変には気付いていたものの、今まで大きな病気や、怪我もしたことのない親父だったこともあり、どこかで大丈夫だろうという思いがあった。結果的にそれが一番甘い判断だった。

 年末には家族で過ごせた時間は少しばかりあったものの、年明けと同時にまた雪崩のように仕事が始まった。自分もこの年に懸ける想いは強かったし、期待もあったので、とにかく仕事を優先した。

 親父の身体は病気に侵されていた。年齢は66歳。決して若くはないがまだまだこれからという思いが自分の中には常にあった。それはいつも自信に満ち溢れ、優しく、気丈にふるまう、元気な親父の姿を昔からずっと見ていたからかもしれない。数年前から疲れやすくはなっていたものの、昔の親父の姿が焼き付き、現実を見ようとしてなかったのかもしれない。

 親父は病院にかかるのがとにかく嫌いだった。おふくろが勧めても決して聞き入れようとはしなかった。

 親父が弱音を吐いたのは本当に本当にギリギリのところであった。5月10日に下位のさいたまSCに引き分けて、チームとしても、自分としてもどん底にいた。ほとんど眠れないまま翌朝は次節の対戦相手の日立ビルシステムの試合を観に栃木までいくことは決めていた。

 5月11日の朝、ものすごく目覚めが悪かった。それと同時に親父の顔がなぜか浮かんだ。お昼の試合だったので、間に合うように早朝に栃木へ出発し、偵察を終えた。そして、親父におそるおそる電話をした。少し前には自分が信頼して現役時代からお世話になっていた民間の治療院を紹介してそこへ通うようになっていた。

 しかしながら数日前に体調が悪く治療院をキャンセルしていたことだけは聞いていたので、朝の時点で嫌な胸騒ぎはあった。電話に出ない。1~2分後にもう一度電話した。今度は出た。ものすごく弱々しい声がした。

「大丈夫?」そう聞いたら、初めての弱音が返ってきた。「死にそうだ」と。

 すぐに栃木から東京の実家へ戻った。戻る途中で実家から近い病院にはすべて電話をして、日曜日でも診てもらえる病院に見当はつけていた。ベッドに親父は寝ている。うつろな目であったが、会話はできる。「病院に行くよ」というと力なく親父は頷いた。

 診察を受けて、やはり良くない状況だとすぐにわかった。近くの大きな病院に緊急入院となった。ひとまずは病院に入れた安心感と、これからどのようになっていくんだという不安な気持ちの両方があった。

 自分は色々なことを後悔していた。あの時にこうしておけば……。あの時の異変で気付いていたら……。なんでもっと話をじっくり聞かなかったのか……。

 西村家の良いところは物事を前向きに考えることであった。そのマインドは親父、おふくろから頂いた。どこかで大丈夫だろう、きっとうまく行く、親父なら大丈夫、そう思っていた。

 5月12日――。

 今度は明け方に電話で起きることになる。病院からの電話であった。時計を見ると5時過ぎ。電話の奥が騒々しい。なにやら緊急のベルが鳴っている。吐血をして非常に危険な状態とのこと。すぐに東京の病院に向かった。

 手術室の前で待たされた。そしてこれから緊急手術だということが告げられた。それは本当に突然だった。医者からはこれが最後になるかもしれませんと告げられた。意味は当然わかるし、事態が深刻だということも理解していたが、わけがわからなかった。あの親父がこの世からいなくなる可能性を理解したくなかった。

 手術が始まりそうになっている。親父はなんでも知りたい性格だった。それは36年間でよくわかっていた。30歳離れた親子が平均どのくらいの会話をするのかはわからないが、きっと会話の時間、密度、心理的なつながりはかなり長く、濃く、強い方ではなかったかと思う。

 きっと親父は自分がどんな状態にあるかがわからないことが一番不安なのではないかと思った。手術が始まる直前に無理を言って病室にいれてもらった。親父にはしっかり目を見て、

「これが最後になるかもしれない」
「ものすごく深刻で良くない状況なんだ」
「何か伝えたいことはある?」

そう親父に語りかけた。親父が言った事は、

「まいったな…」
「でも卓朗とゆかり(姉)はもう大丈夫」
「あとはママを頼む」

 そう言われた。幸いにも手術は成功し、その場はしのぐことができた。

 5月13日――。

 当然予断は許さない状況であった。福岡から姉貴もすぐにやってきた。医者からはかなり危険な状況でその時点で、おそらく週末が山になると告げられた。週末まで持てばよい方で、いつ容態が急変してもおかしくないということは告げられていた。

 しかしながらそれから2週間は幸せな時間が続いた。体調が回復していき、ベッドから起き上がるとこもできるようになり、会話も元気にできる。目にも力が戻っていた。医者も驚いていたが、検査の数値だけは回復することはなかった。

 親戚、孫が集まった。来る日も来る日、色々な人がお見舞いにきた。あの時、親父はどんな風に思っていたのだろう。弱音は吐かなかったが、寂しがり屋であった。それでも人に迷惑をかけたくないという気持ちが強く、素直になるのは苦手な親父だった。

 自分も1日に一度は病院に行くようにしていたが、親父にはこの状況でも希望を持ってほしかったし、家族もそれを信じたかった。事実、元気になっていく姿も見ていると、「死」に触れることはしづらかったし、親父がこの時点でどんなことを望んでいたのかはなかなか察することが難しかった。

 一度、意を決して面会時間間際に一人で行き、本音、また自分の人生について言い残すことなどを聞くために足を運んだが、疲れと、病状もあり、そのような話には至らなかった。

 このような状況の中で、自分の仕事との向き合い方には正直悩んだ。それでも親父は「おまえは仕事に行け」その一言だった。5月25日の流通経済大学との試合には勝つことができた。今季初めての連勝で、少しだけホッとした。

 しかしながら、そのあたりから親父の容体は下り坂になっていった。ベッドの上でも苦しそう表情を見せるようになった。近くに張り付いていた、姉貴とおふくろは本当につらい時間だったと思う。

 つらそうな時期もすぐに過ぎ、今度は意識が落ちる時間が次第に長くなっていった。会話もままならなくなった。そしていよいよその時がきた。

 5月29日――。

 いつものように夜の練習が八幡宿のグランドで終わり、車に戻って携帯を見ると姉貴からの着信があった。電話をするといよいよだと。すぐに病院にかけつけた。病室に入ると、家族、孫、嫁が泣いていた。

 まだ冷たくなってはいなかったが、瞳孔に反応はない状態だった。親父が旅立ったことを医者から告げられた。

 2日後に葬儀が行われた。親父からの強い要望で限られた親族だけの密葬となった。5月31日の午前中に葬儀が行われ、夜には浦安との試合があった。

 一度も勝ったことのない浦安との対戦は、この日も勝つことはできなかった。
試合後すぐに実家に戻った。親を亡くすことは初めてのことで、悲しみに浸るより、色々やらなければならないことが目の前には山積みだった。

 6月はひとつずつ家族で力を合わせて、進んでいく日々だった。何年ぶりだろうか、姉貴、おふくろと家族で共同の作業をする時間。昔の記憶、思い出がたくさん蘇ってきた。

 記憶の中には家族がちゃんと4人いる。しかし今は3人になっている。それが余計に寂しく、悲しかった。

 自分の人生の中でここまで繋がりが強く、長く時間を過ごし、愛情を注いでもらい、そして最大の理解者の一人であった親父がいなくなってしまったことは、これまでの人生の中で一番悲しい出来事であった。

 色々なことをすごく後悔した。その思いは今も続いている。サッカーの試合に負けた出来事は、そこから反省し、次に活かすことができる。だから分析して、仮説を立てて、そこに努力をスタートできればいつでも気持ちは前向きになれた。

 しかしながらこの出来事だけは後悔しか残らない。次に活かすなんて、簡単に気持ちを割りきることはできないし、こんな決定的な結果が出てから気付くなんて、自分がものすごく大切な何かが欠落していたのでは、そんな思いがわいてきた。

 今までの自分の価値観、考え方、生き方が大きく間違っていたのではないか? だから親父が死んでしまったのではないか? そんなことが日々頭を巡った。

 一方で36年間の付き合いの中で、親父は自分がサッカーに打ち込むことを本気で応援し続けてくれた。最大の理解者の一人だった。実際に色々な事を教わった。もののとらえ方、考え方、感じ方、表現の仕方、人として、男として。

 親父と二人で語り合う時間が自分はすごく好きだった。夕食を食べながら、食後の時間から、何気なく始まり、テレビの音量を下げる。それが始まりのスイッチだった。

 自分の親父のことを褒めるのもちょっと恥ずかしいが、本当に心に残り、響くような言葉や、話を親父はよく聞かせてくれた。すごく前向きで、正義感があって、ユーモアがあり、そしてどちらかというとマイノリティーな考え方が親父は好きだった。

 大多数になるな、少数派でも良いから信念を持つこと、自分が好きなことをやる事のすばらしさを聞かせてくれた。そして物事のとらえ方は検証が色々な角度から何度も重ねられ、親父の意見、考え、には説得力があった。

 自分はいつからか、気にいった言葉、考え方はメモをとるようにした。そして気に入った考え方は、自分の性格、人格の一部になっていった。

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