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日本代表 7年前

井手口陽介を育んだG大阪の「生きた教科書」たち。怪物の「種」を開花させた国際舞台の経験

text by 下薗昌記 photo by Getty Images

「種」が芽吹いた2年前のある試合

井手口
井手口(左)にとって大きなきっかけとなったのは2015年のスルガ銀行杯、リーベル・プレート戦だった【写真:Getty Images】

 G大阪のアカデミー出身者にはボール扱いの上手い選手は数多くいたが、井手口は当初から「闘える」選手だった。

 井手口が最も影響を受けた指導者と語るのがユース時代に指導を受けた梅津博徳(現G大阪ジュニアユース監督)だ。「梅津さんには試合中もそれほど怒られることなく『楽しめ』みたいな感じの人で、サッカーが楽しかったですね」と話す。ジュニアユースとユースではいずれも背番号10を託されたことからも分かるように、単なるハードワーカーではないのが井手口を井手口たらしめる要素である。

 梅津は言う。

「陽介はテクニックがあるし、特に判断に優れていた。中1の時でも、中3相手に逃げることなくハードワークしてコンタクトを嫌がらなかった。海外に連れて行っても、むしろ堂々とコンタクトを挑みにいく選手だった」

「闘えるテクニシャン」という要素を持ち合わせた最高の「種」がその芽を出し始めたのは、やはりアカデミー時代から得意としていた国際舞台でのことだ。

 井手口にとってのターニングポイントは南米王者との邂逅である。2015年8月のスルガ銀行チャンピオンシップで、リーベル・プレート相手に井手口は「陽介はフィジカルが強いので」(長谷川監督)と右SBで先発した。開始早々の8分にPKを献上したのは若さ故のミスだったが、後半からは本職のボランチでアルゼンチン代表クラスがプレーする南米の雄相手に球際の強さを発揮。水を得た魚のように躍動感溢れるプレーを披露したのだ。

「リーバルにあれだけやれたのは自信になった」

「リーベル」でなく「リーバル」とその名を間違えて覚えていたあたりは、井手口ならではのエピソードだが、ひとたび芽を出した逸材は加速度的にその成長を高めていく。

「成長曲線が早い選手は環境さえ整えておけば自然と伸びていっちゃう。私が何か言うよりはいいお手本が周りにあった」(長谷川監督)

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