ストイコビッチにイエローカードを出された審判 -小幡真一郎インタビュー-

「ストイコビッチにイエローカードを出された審判」といえばその存在を思い出す人は多いはずだ。小幡真一郎。1993年のJリーグ開幕戦で主審を担当し、国際試合も数多く経験。現役引退後は次世代の審判育成に尽力し、2013年にはその功績が評価されAFC功労賞ブロンズスターアワード受賞するなど正に日本審判界のレジェンドである。そんな小幡も66歳。昨年定年を迎え、穏やかな日々を過ごしているのかと思いきや、2018年春から筑波大学院に入学し、審判について再び勉強を始めたという。そのモチベーションの源はどこからくるのか。今だから話せる現役時代の想い出も振り返りながら話を聞いた。(取材・文:玉利剛一)

2018年11月24日(Sat)10時00分配信

text by 玉利剛一 photo Koichi Tamari
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「セカンドキャリアは指導者になるつもりだった」

小幡真一郎
長く日本を代表する審判として活躍した小幡真一郎氏【写真:玉利剛一】

-まずは審判を志された経緯を教えてください。経歴を拝見すると3級審判員を取得されたのが27歳と遅めのキャリアスタートです。この年齢時は京都紫光クラブで現役選手として現役でプレーしていますし、本業では教師をされている時期です。

「私の審判人生って自分の意思ではなく、その時々の流れに乗って進んできたんです。3級審判を取得した当時は京都教育大学附属高校の教員としてサッカー部の指導も行っていたのですが、高校の試合って先生が審判をやるんですよ。だから、仕方なく。取らざるを得なかった」

-とはいえ、3級審判員を取得した4年後には2級を、さらにその2年後には1級まで取得されています。強い意志と努力がないと1級は取れないと思うのですが。

「京都紫光クラブをやめたのが1981年。29歳で引退しました。セカンドキャリアは指導者になるつもりだったんです。部活の監督として国立を目指そうと。そんな時、1988年に京都国体の開催が決まった。国体って開催県が各種競技の運営組織を作るんですけど、サッカーも同じで国体の審判を担当する人間を決める必要があった。そこで「おっ、手頃な奴がいるぞ」って感じで私に白羽の矢が立って、本格的に審判をやらないかと先輩から誘われて……断れなかったですね」

-ある種“やらされた”形でキャリアを歩み始めた審判ですが、1993年にはJリーグ開幕戦の主審も担当されています。誰でもできる仕事ではないと思うのですが、自分に審判の才能があるというのはいつ頃から感じましたか?

「才能があるなんて思ったことなんてないですよ(笑)。実際、Jリーグ開幕戦の話がきた時は何回も断りましたからね。だって、嫌でしょ。下手したら審判はボロカスに言われますから。嬉しいってよりプレッシャーで。当時は7名の候補審判がいらしたと思いますが、私は年齢的にも経験的にも一番下。ワールドカップに2度選ばれた高田(静夫)さんもいらっしゃいました」

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